ょう。飽きてしまうといけませんから、ときどきはこれまで載せ切れなかった華やかな写真も混ぜましょ
う。というわけで今日は、晩秋の北見緑ヶ丘公園のハコヤナギ(ヤマナラシ)です。
わたしが近くの町で高校の寮にはいることが決まったころ、同級生の大半は東京に向かう集団就職列車
に乗りました。町工場へ、パンのキムラヤへ、オートバイ屋へと、彼らは散っていきました。農地解放で
小作の地位からは逃れられても、もともと耕地の少ない山村のこと、わずかな土地を継ぐ長男以外は居場
所がありません。低賃金でも、長時間の厳しい労働でも、口減らしのために都会に出るしかないのです。
そのころ村に水道はなく、煮炊きも飲み水も、マスを養殖していた池から流れる小川に頼っていまし
た。よく赤痢がはやり、死者も出ました。風呂といえば、天秤につるしたバケツで水を汲みいれ、杉の枯
葉や朽枝を集めて焚きました。10日に一度風呂を沸かせば、隣近所を招いて何十人も入ります。最後に
嫁が入るころには、どろどろに濁っていましたが、焚口の炎だけが明かりで水色までは見えぬのが幸い。
そういう村に残った長男とその嫁は、自給経済が崩れて現金の必要が増すとともに、長い冬は出稼ぎが
あたりまえになりました。村のくらしを思い、都会での長時間の過酷な労働にも耐えます。自活の展望が
開けない農村に貯えられていた、安く乱暴に使える膨大な労働力が、日本の高度成長を支える人的資源で
した。いまの中国や東南アジアと同じです。
そのころの夕張は、地下にもぐりったりスラを引いたりする、他に行き場のない男や女が生み出す黒い
ダイヤ(石炭)が戦後産業復興を支えた時代の、最後の賑わいのなかにあったでしょう。彼らの掘った石炭
をエネルギー源として、集団就職の新卒や出稼ぎ人を人的資源として、阪神、中部、京浜工業地帯が栄え
はじめます。石油を輸入する余力が増すとともに、夕張は衰退します。輸入食料が増え、効率の悪い山村
農業には将来が見えなくなります。
やがて膨大な余剰労働力も底が見えてきて、都市労働者の生活水準は向上しはじめます。運がよけれ
ば、出稼ぎ先に通年の仕事を見つけたり、炭鉱を捨てて町で仕事に就いたりもできました。しかし村は若
い人たちが少なくなり、貧しい高齢者では消費需要も伸びません。寂れた山村や夕張は、どうやって自立
を図ればいいのでしをょう。
長くなりました。もう一度明日続けます。