フィンランド・モデルは好きになれますか 40
第一部
わがオホーツク地方にオホーツク・ブルーという言葉があるように、日高・十勝地方には十勝晴れという言葉があるようです。10月1日のワイン祭りの日がそうでした。
第二部
フィンランド・モデルは好きになれますか 40
5 課題
(3) 絶望と希望
〔反グローバリズムの空しさ〕(承前)
極度の貧困から中程度の貧困への移行が、個人のくらしにどのような変化をもたらすか、バングラディシュの例を見よう。1971年にこの国は東パキスタンから独立した。同年は深刻な混乱と飢饉に見舞われ、世界最貧国のひとつとみなされる状態から始めることになった。いま、一人当たりの所得は当時の二倍に、平均余命は44歳から62歳に伸び、乳児死亡率(新生児千人あたりで誕生一年未満の死者数)は145人から48人に減った。
途上国の多くに見られる被服工場がこの国の都市でも稼動し、GAPやポロ、イヴ・サンローラン、ウォルマート、j・c・ペニーなどの、世界に知られたブランド品を生産している。ダッカには毎朝、おびただしい数の若い女性が近郊の最貧地域から工場までの路上を埋めて、被服工場に集まる光景がある。2時間かけて徒歩で職場に来て、休憩がほとんどない状態で12時間働き、ボスのセクハラを受けるようなことが珍しくはない。彼女たちの低賃金・長時間労働は先進国の抗議の的になる。だが彼女たちはインタビューに答え、この仕事がくらしをよりよく変える大きなチャンスだった、と語っている。
ほとんどの女性がここで働き始める前は、長期の飢えと高圧的な家父長制がはびこる村でくらし、学校にも行けず読み書きもできなかった。そのままいけば、父親の言うままに結婚させられ、17か18で子どもを産み始め、栄養の足りない子どもを6・7人は育てることになっただろう。いまは、わずかな賃金から貯金をし、自分の部屋をもち、デートや結婚の相手を自分で決め、ほしいときに子どもを産み、学校に戻ってスキルを身につけることもできる。豊かな国の活動家の抗議で工場が閉鎖されるようなことになれば、彼女たちは田舎の惨めなくらしに戻るしかなくなる。
工場で働く女性たちがお金とともに故郷に送る新しい考え、田舎から都市への移動の増加、家族収入の多様化などで、田舎の村にも変化が広がっている。バングラディシュ田園地帯発展委員会というNGOがある。その後援で組織された村落共同体は、村やダッカへの路上で、村の女性が食品加工やその販売などの商業活動を営むのを支援している。共同体のサブグループの一つひとつが、返済に共同責任を負って、資金を借り入れる。この小額ローンでささやかな商売が始められる。彼女たちの活動が村にもたらして変化は、アパレル業界の発展に劣らずドラマティックだった。経済だけでなく、子育てをめぐる女性の態度も変えた。グループ・メンバーが希望し、また実際もつことになった子どもの数は、平均して一人か二人である。
都会や農業以外の零細ビジネスで女性の働き口が増えたこと。女性の権利と自立と地位の向上に対す る意識の高まり。乳児死亡率の劇的な低下。女児や若い女性の識字率の上昇。そして何より大きいの が、家族計画と避妊の普及。これらすべてが絡みあった結果、女性の生き方が一変した。(後略)
ジェフェリー・サックスの主張の道筋をこうまとめてみる。<ここ200年の近代的経済成長で、それまであまねく広がっていた絶対的な貧困からの脱却が可能になった。地域によって成長率がちがっていたから、いまなお大量の絶対的貧困と中程度の貧困が残っている。しかしそれは、適切な対策を実施すれば、今後20年未満で解消できる。> ここまでが言葉の借用にわたしの言い換えを混じえた同書の一部の要約である。著者の言い分からは逸脱しないように努めたが、正確なところは同書に直接当たったほしい。
少しコメントする。世界で経済と政治を方向付ける実務の担当者は、近代的経済成長(近代化)の現実を踏まえて考えることになる。彼らのなかには近代化の光の部分に目を向ける人が多いにちがいない。サックスは彼らを代弁して、その世界観を体系的に語っているように思える。実務に携わることのない言論人であれば、いくらでも近代化の影の部分を強調することができる。彼らは語るのが仕事だから、その主張にはひんぱんに出会う。イスラムやキリスト教の原理主義者や反グローバリズム活動家は、そういう言説のなかから自分好みで選んだものを、拡張して利用できる。わたしは、実務指導者が自分の思想を体系的に語ったものにはあまり出会っていなかったので、サックスの主張が新鮮だった。
近代化には光と影、功と罪の二面がある。その罪を論じることには意味がある。だが功をすべて否定するのは間違いだ。なにより、現在64億に達した人口を抱えたまま、近代経済の200年を飛び越えて、前近代に戻ることはできない。あえて戻ろうとすれば、カンボジァでポル・ポト派がやったような、大量虐殺を避けられなくなる。
(この項続く)
わがオホーツク地方にオホーツク・ブルーという言葉があるように、日高・十勝地方には十勝晴れという言葉があるようです。10月1日のワイン祭りの日がそうでした。
第二部
フィンランド・モデルは好きになれますか 40
5 課題
(3) 絶望と希望
〔反グローバリズムの空しさ〕(承前)
極度の貧困から中程度の貧困への移行が、個人のくらしにどのような変化をもたらすか、バングラディシュの例を見よう。1971年にこの国は東パキスタンから独立した。同年は深刻な混乱と飢饉に見舞われ、世界最貧国のひとつとみなされる状態から始めることになった。いま、一人当たりの所得は当時の二倍に、平均余命は44歳から62歳に伸び、乳児死亡率(新生児千人あたりで誕生一年未満の死者数)は145人から48人に減った。
途上国の多くに見られる被服工場がこの国の都市でも稼動し、GAPやポロ、イヴ・サンローラン、ウォルマート、j・c・ペニーなどの、世界に知られたブランド品を生産している。ダッカには毎朝、おびただしい数の若い女性が近郊の最貧地域から工場までの路上を埋めて、被服工場に集まる光景がある。2時間かけて徒歩で職場に来て、休憩がほとんどない状態で12時間働き、ボスのセクハラを受けるようなことが珍しくはない。彼女たちの低賃金・長時間労働は先進国の抗議の的になる。だが彼女たちはインタビューに答え、この仕事がくらしをよりよく変える大きなチャンスだった、と語っている。
ほとんどの女性がここで働き始める前は、長期の飢えと高圧的な家父長制がはびこる村でくらし、学校にも行けず読み書きもできなかった。そのままいけば、父親の言うままに結婚させられ、17か18で子どもを産み始め、栄養の足りない子どもを6・7人は育てることになっただろう。いまは、わずかな賃金から貯金をし、自分の部屋をもち、デートや結婚の相手を自分で決め、ほしいときに子どもを産み、学校に戻ってスキルを身につけることもできる。豊かな国の活動家の抗議で工場が閉鎖されるようなことになれば、彼女たちは田舎の惨めなくらしに戻るしかなくなる。
工場で働く女性たちがお金とともに故郷に送る新しい考え、田舎から都市への移動の増加、家族収入の多様化などで、田舎の村にも変化が広がっている。バングラディシュ田園地帯発展委員会というNGOがある。その後援で組織された村落共同体は、村やダッカへの路上で、村の女性が食品加工やその販売などの商業活動を営むのを支援している。共同体のサブグループの一つひとつが、返済に共同責任を負って、資金を借り入れる。この小額ローンでささやかな商売が始められる。彼女たちの活動が村にもたらして変化は、アパレル業界の発展に劣らずドラマティックだった。経済だけでなく、子育てをめぐる女性の態度も変えた。グループ・メンバーが希望し、また実際もつことになった子どもの数は、平均して一人か二人である。
都会や農業以外の零細ビジネスで女性の働き口が増えたこと。女性の権利と自立と地位の向上に対す る意識の高まり。乳児死亡率の劇的な低下。女児や若い女性の識字率の上昇。そして何より大きいの が、家族計画と避妊の普及。これらすべてが絡みあった結果、女性の生き方が一変した。(後略)
ジェフェリー・サックスの主張の道筋をこうまとめてみる。<ここ200年の近代的経済成長で、それまであまねく広がっていた絶対的な貧困からの脱却が可能になった。地域によって成長率がちがっていたから、いまなお大量の絶対的貧困と中程度の貧困が残っている。しかしそれは、適切な対策を実施すれば、今後20年未満で解消できる。> ここまでが言葉の借用にわたしの言い換えを混じえた同書の一部の要約である。著者の言い分からは逸脱しないように努めたが、正確なところは同書に直接当たったほしい。
少しコメントする。世界で経済と政治を方向付ける実務の担当者は、近代的経済成長(近代化)の現実を踏まえて考えることになる。彼らのなかには近代化の光の部分に目を向ける人が多いにちがいない。サックスは彼らを代弁して、その世界観を体系的に語っているように思える。実務に携わることのない言論人であれば、いくらでも近代化の影の部分を強調することができる。彼らは語るのが仕事だから、その主張にはひんぱんに出会う。イスラムやキリスト教の原理主義者や反グローバリズム活動家は、そういう言説のなかから自分好みで選んだものを、拡張して利用できる。わたしは、実務指導者が自分の思想を体系的に語ったものにはあまり出会っていなかったので、サックスの主張が新鮮だった。
近代化には光と影、功と罪の二面がある。その罪を論じることには意味がある。だが功をすべて否定するのは間違いだ。なにより、現在64億に達した人口を抱えたまま、近代経済の200年を飛び越えて、前近代に戻ることはできない。あえて戻ろうとすれば、カンボジァでポル・ポト派がやったような、大量虐殺を避けられなくなる。
(この項続く)