フィンランド・モデルは好きになれますか 41

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第一部
 十勝晴れの空の下に広がる池田町です。

第二部
         フィンランド・モデルは好きになれますか 41

5 課題

 (3) 絶望と希望(承前)

〔貧困解消と情報化〕
 近代的経済成長前の人々は、飢え・災害・病・暴力・因習などによる死が日常的で、平均寿命がいまの四分の一から半分ほどしかない世界を生きた。それでもそれが、自分たちの逃れられない運命だと思うしかないので、ただ耐えて、それでもよりよく生きるために知恵をめぐらせたにちがいない。そして人口は、各地域の自然と社会によって淘汰されて、地域環境が人を扶養する能力の限界内に調節されていた。
 前近代にも、仲間と誠実に向き合い、短い生と周りにあふれる死を従容と受け容れる気高い心はあっただろう。だが一方で、狩漁採集の社会でさえ、割合からすれば、二つの世界大戦を含む現代の暴力による死者の数を上回る数の、殺し合いによる犠牲者が存在していた(参照:スティーブン・ピンカー『人間の本性を考える』NHKブックス 上 第三章)。狩漁採集者の群れにも、農牧の共同体や領地を奪い合う戦士団にも、産業化と情報化にまい進する近・現代にも、それぞれの時代と地域ごとの「高貴さ」も「野蛮」もある。時代を超えて通底する要素も、それぞれに固有で外の人には理解さえできない部分もあるだろう。西欧近代を基準に、さまざまな「高貴さ」や「野蛮」を序列づけるのはまちがっている。だが、現状への絶望を、幻想的に美化された過去に投影するのも、やはりまちがっている。
 いまは前近代とちがって、住民の多数が豊かにくらす大きな地域があって、交通が飛躍的に発達し情報圏がグローバルになっているから、自分たちの貧困が避けられない運命であるとは、思えない。そして世界全体に、生産性の低い地域を放置して、そこの扶養能力を超える人口が淘汰されるのをただ傍観するのは、不正義であるという意識が広がってしまった。前近代の生産力が養うことのできる人口は9億なのだから、64億のヒトのすべてが避けられる死は乗り越えられるように、世界全体が力を尽くすべきだと考えるのであれば、経済をグローバル化して、すべての地域に現在最高の生産性の水準を及ぼすしかないではないか。サックスはそれが可能だと考えている。
 だが不可能だと考える人もいる。極度の貧困と中程度の貧困に相対的な貧困を加えれば、世界人口の84%弱になる。彼らすべてが、16%強の富裕層と肩を並べるところまで豊かになったら、資源や廃棄物処理で、地球は限界を超えてしまう。富は力なのだから、上位層の富を削って平準化することは不可能だ。こう考えると絶望に突き当たる。だが、経済のグローバル化は、同時に経済の情報化でもあった。ここから希望が見えてくる。
 当然のことだが、高い値がつく絵画の価値は、使われた画材ではなく、その絵がもつ情報で決まる。いまは一般に大きい乗用車のほうが小さいものより高い。それでも、高度な技術が集約されていて、内装や外観が目だって洗練されていれば、小さくても高い値をつけられる。燃料や排気ガスのクリーン度が注目されるようになれば、すこし高くても他人より先に買うという人もきっと出てくる。情報化が進むと、富の総額は同じでも、物としての財から情報としての財への移行が進む。生活必需品として最低限の物財は欠かせないが、それ以上の富の表現としては、情報財で代替できる。物財増加は地球の有限性に突き当たる。情報財にこの限界はない。
 情報の価値は社会の評価で決まる。技術でも芸術・娯楽でも、社会が高く評価する情報を一番先に独占的に発表した者と、その情報を小売できるように加工する権利やノウハウ(これも情報)をもつ者が、大きな利潤を得る。小売できない情報は価値があっても直接には利潤を生まないかもしれない。しかし地位や報償で報われる。物財とちがって、有用性よりまず社会の評価なのである。実用としてはムダでも、社会が評価すれば高い情報価値をもつ。情報評価する主体は人の心(個体脳に宿る意識)であるが、それは個としてではなく社会として仕事をする。そして情報を評価する社会は、急速にグローバル化が進んでいる。心のグローバライゼーションが見えてくる。
 (次回がこの稿の最終回です)