フィンランド・モデルは好きになれますか 38

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第一部
 嵐の翌朝の美幌川は、堤内の岸の草むらに氾濫してとうとうと流れていました。写真で流れの中央部に見える木立の右側が本来の川です。

第二部
  フィンランド・モデルは好きになれますか 38

 5 課題

(3) 絶望と希望

〔普遍的な戦争状態という観念〕
 アルカイダビンラディンが鼓吹する思想の核心のひとつは、現在の世界では善と悪との普遍的な戦争が進行している、というものである(参照:『アルカイダ』ジェイソン・バーク 坂井定雄・伊藤力司訳 講談社)。善と悪、あるいは正義と不正義の戦争状態にあるという意識は、イスラム過激派だけでなく、左翼過激派や排外主義的・右翼的テロリストのほとんどにも、たぶんジョージ・ブッシュ金正日にも共有されている。テロリストは自分が戦士だという思いに、公憤も個人的な恨みや挫折感もすべて溶し込むことができる。専制的な政治指導者にとって、「戦時」あるいは「国家非常時」の喧伝は、なりふりかまわぬ反対派の弾圧を合理化する、もっとも有効な手段になる。このことは戦時下の日本を顧みれば容易に理解できる。
 ブッシュや左翼・右翼テロリストとちがうビンラディンの強みは、彼が自分の教義の根拠として、イスラムの宗教思想を利用できたこと(参照:『イスラムの根源を探る』 牧野信也 中公新社)、それに現在の世界がその教義を裏付ける実例を豊富に提供していることだ。例えば次のように主張できる。
 世界を見よ、10億の民が貧困にあえぎ、8億は飢餓に瀕している。その被害者の多くは、アフリカから中央アジアインドネシアまで広がる、ムスリムの同胞ではないか。中東を見よ、一握りの支配層が富裕を誇り、志高い若者たちは職もなく、穏やかな改革を唱えただけで投獄されている。その背後にあって世界を破滅に導いているのは、物欲にまみれ退廃的な性を謳歌しているユダヤ人・欧米人、なかんずくアメリカ人である。日本に原爆を投下し、産業廃棄物で環境を汚染し、貧困を輸出し、イスラエルとアラブの抑圧的な政権を支えている元凶はアメリカではないか。彼らの富と武力は強大で、われわれは現世では勝利できないかもしれない。だが神の正義を実現する戦いで死すものは、あの世の天国を約束されるのだ、と。
 アメリカの圧倒的な武力(米国の03年国防予算は02年軍事費世界総計の49.9%:『世界を見る目が変わる50の事実』草思社 第43項から)は、タリバンアフガニスタン国家を破壊し、その保護下にあったアルカイダの組織的な機能を解体させることはできた。だが思想としてのアルカイダも、その思想に共鳴する人々のゆるやかなネットワークも、消滅させることはできなかった。組織がなければ維持できない思想は武力で弾圧できる。しかし、個人の心に浸みとおった思想を滅ぼすことができるのは、より有力な思想だけである。イラク戦争は、アルカイダが悪の権化と指摘していたものを、イラクとアラブの民衆の目の前に現出した。同時に、アルカイダを封じ込める重石になっていたフセイン体制を破壊し、その思想運動をさらに賦活する結果になった。
 アラブ過激派思想の究極的な根拠地・温床は、世界的にも国内的にも拡大する、絶望的な経済格差である。フィンランドは国内経済格差の悪影響を、高度社会保障の網の目で封じ込めようと努力し、かなり成功している。だが、グローバルな格差から湧いてくるものには無力である。
 現金収入額の格差だけが問題なのではない。南アジアで耕地と家をもつ農民Aが一ヶ月に3千500円の現金収入を得るのと、日本の大都市に一人で住む資産のないBが3万5千円の月収を得るのとでは、意味がちがう。Bは社会保障がなければホームレスになるしかない。Aは外からの災害がなければ生活に満足していることもありえる。Aの10倍の収入があるBの不幸は、Aに無関係である。ところが、Aが輸出用のエビの養殖池を作ろうとする業者に耕地を売って、トヨタの現地工場に勤め始めたとする。そしてBは派遣業者の募集に応じて豊田の工場で働くとする。Aの月収は5千900円になり、Bは残業代も含めて29万3千円である。格差は50倍になった。それでもAは幸運だった。12時間労働でも、残業割増がなくても、就職したいのにできない人が周りにはあふれている。
 トヨタの経営陣は現地生産への比重の移動を視野に入れて、豊田工場の賃金抑制を図ろうとする。派遣業者から、雇用保険負担も残業の割増賃金も考えなくていい請負業者への契約変更はどうか、研修の名目で中国人労働者を集められないか、などと検討される。国際格差が国内格差に影響を与えるようになる。この点ではいまのところ、EUアメリカのほうが日本よりずっと深刻である。
 1990年代に資本の移動が事実上自由になり、国際多国籍企業(コングロマリット)はさらに強力になった。トヨタ自動車の年間総売り上げは、上位11カ国を除く世界のどの国の年間政府予算より多い。国家予算規模が、ウォルマート、BP、エクソン・モービルロイヤル・ダッチ・シェルゼネラルモーターズ、フォードモーターそれぞれの、年間総売り上げより大きい国は、米・英・日・伊・仏・独・中・蘭の8カ国だけである(『世界年鑑2005』の数字から計算)。
 耕地をエビ養殖池に変えさせるような変化が、個人はもとより、ほとんどの国も抵抗できない勢いで進行している。それにより、国や地域に固有な生活基盤が融解し、個人がグローバル経済の波に直接さらされる。国や地域、国内の諸階層で不均等な、このグローバリゼーションの下での恩恵と悲惨が、世界のいたるところで戦時下のような緊張の遠因になっている。一方に恩恵を死守しようとする国家・階層があり、一方に悲惨から脱出したいと必死になる国家・個人がいる。フィンランドは国家の大勢としては前者に属する。だからイラクにも派兵した。だが、その国内にも緊張がもたらすストレスに耐えられない人々がいる。
 (この項続く)