フィンランド・モデルは好きになれますか 30

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第一部
 昨日付けのフリーペーパーに、元気象予報官の「温暖化」への警告が掲載されていました。彼によると、いまの北見地方の気候は100年前の函館の気候だそうです。この前の大雨で、この地方のあちこちに水の被害が出ています。これまで、オホーツク地方は気象災害がほとんどないといわれてきたのですが、これからは警戒しなくてはならない、と彼は言っています。
 それでも、今朝は寒かった。予報を見ると、そろそろ最高気温が25度を割り、最低気温が15度前後になる日が増えそうです。
 昨日雨が小止みになったときトマトを収穫しました。やはり6個ありました。毎日こんな調子だから、とても食べ切れません。前に溜まった分はネットの修理に来てくれた電気屋さんにもっていってもらったのですが、近所の人はたいてい自分たちでも作っているし、どうしよう。

 せせらぎ公園の一部はニセアカシアの大木の並木です。花の季節ではないのですが、その写真を載せました。もう一枚は散策路の藪に咲くツリフネソウ。

第二部
           フィンランド・モデルは好きになれますか 30

4 福祉と経済
 
 (2) 情報・サービス社会の教育(承前)

フィンランド教育改革の精神〕
 フィンランドの教育改革で一番重点がおかれたのは、読解力の向上である。日本でもたびたび国語力の低下が問題にされるが、たいてい語彙(ごい)が貧弱だとか、漢字を知らないとか、敬語を使えないとかというところへいく。読解力のテストでも、テキストをどう解釈すべきかの教師(出題者)の正解が用意されていて、生徒はそれと一致する選択肢を選ぶよう求められる。あくまで教師が上にいて、漢字、言葉の用法、敬語という序列感覚、それに「正しい」テキスト解釈など、上から示される「正解」に短時間で正確に反応する訓練が「勉強」とされる。
 フィンランドでは、3-(1)で引用したように、ある教師が「私たちが子どもだった時代は、授業は教師が中心になって行われ、教師は神のような存在だった。いまは役割が変わってきて、子どもの意見を聞き、ニーズに配慮しながらやっているのが大きな違いだ。」と語っていた。むこうの教育改革で向上をめざした読解力とは、教師が教える「正解」を覚えたり、選択したりする能力ではない。図書館との連携が強化され、読んだ本に自分の好みで順位をつけさせる。多くの家庭では父親が幼児に読み聞かせを行い、保育所では子どもがものがたりをして大人が書き取る。2-(2)で引用したことだが、「できるだけ子どもたちの生活と学習を関連させる。国語なら読み書きの正確さより、読んだ文章について考え、感想や意見をどう表現するかに重点を置く」と教師が語っていた。強調されているのは、「正解」にとらわれることではなく、自分の好みを大事にしてたくさん読んで、中身を批判すること、未熟でもいいからまず自分の意見をもって、それからそれを説得力ある表現に洗練すること、である。
 日本のセンター試験は1教科1時間だ。提示された選択肢の中から「正解」をいくつ選択したかで評価するのだから、1時間ですみ、採点は一瞬である。設問から出題者の意図を読み取り、テキストのなかから短時間で「正解」を見つけるのが優秀な受験生だ。フィンランドの大学入学資格試験は1教科6時間である。テキストを参照して、問題設定に対して独創性のある解決策を考え、説得力ある表現にまとめ上げるのだから、6時間必要になる。採点者は、自分の思ってもいなかった解決策が洗練された表現にまとめられた答案を見たら、喜んで高い点をつけるだろう。採点には長い時間がかかる。
 3-(1)で触れたが、教員採用試験の面接で志望動機を、「子どもが好き」と言ったらまったく評価されない。日本では通用するだろう。教師が上から提示する「正解」を抵抗感なく生徒に受け入れさせるのに、教師と生徒の親和関係が有効だからである。権威があるけど生徒に好かれる、それがこちらでは理想の教師像ではなかろうか。むこうで教師に求められるのは、知能・創造力・表現力を向上させたいという生徒のニーズに、的確に応える資質と技能である。さまざまなタイプの知能にそれぞれ適した学習方法を発見し、学習課題に対する生徒の自発的動機を引き出し、表現力を向上させる手段とアドバイスを提示できなくてはならない。生徒を同格者として尊重する態度と学習を効果的に支援できる専門能力が評価されるのである。
 産業経済の時代には量産機械を無駄なく正確に稼動させる能力がだいじだった。上からの意図を的確に理解し、正確に実行する、日本の教育はそういう人材を供給するのに適しているところがあって、80年代までの経済成長に貢献した。だが、経済はハード・メカから多様なソフトに重心を移している。独創的ですぐれたソフトが次々生産される土壌は、公に干渉されない豊かな私的精神領域の広がりである。自分の好みにこだわり、そのなかからさまざまな需要に応えられる独創的な製品を考え出し、ユーザーを満足させられる完成度を達成する。そういう能力のある人材が必要になっているのである。
 むこうでは生徒の自主性を尊重して、生徒と経済のニーズに応える教育を模索している。こちらでは序列秩序を再建する方向に教育を変えようとしている。同じ「教育改革」という言葉で語られても、方向が逆なのだ。どちらが情報・サービス経済の社会に適しているかは明らかではないか。石原都知事に任命された教育委員会は、自分たちが日本経済を破滅に導こうとしていることに、気がつかないのだろうか。職務権限を強化した管理者が、専門能力にすぐれた教師たちを統率して、創意工夫で学校を変えていくのならいい。しかし、人格的な序列秩序を強化して上意下達で教師と生徒をがんじがらめにし、愛国心を注入しようとするのは、個人としての個人の精神領域を狭め、新しい経済の芽を枯らす方向である。序列意識を追放すること、正解病から抜け出すこと、それが教育改革の核心でなくてはならない。
 (この項続く)