フィンランド・モデルは好きになれますか 22

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第一部
 紋別公園に隣接して、オホーツク庭園があります。昔の石切り場跡を日本庭園にしたのだそうです。無料でだれでも入れるので、写真に撮りました。

第二部
         フィンランド・モデルは好きになれますか 22
3 フィンランド人の精神生活
 (1)社会のなかの個人(承前)
〔公への信頼〕
 川崎一彦はこう書く()。

  北欧では、福祉社会を維持するためには高い税負担を惜しまない。税金について議論すると、北欧人 はよく「税は納めるもので、投資である。教育、医療、年金、介護その他の社会保障制度で、必ず投資 した我々国民にもどってくる」との確信を伝えられる。税は「取られるもの」と考えている日本人とは 意識がまったく異なるのだ。
 
 フィンランドは政治家の汚職が世界一少ない国として知られている。このことは国民が高負担を受け入れていることと無関係ではないだろう。
 この国の中世は調べていないが、イギリス中世では、農奴と領主の間には人格的隷属関係があったが、自由身分どうしの関係は、たとえ国王と騎士であっても、契約的なものだった。封を受ける代償に誠実の証としてなにかモノを奉じる契約を交わして、主従になる。誠実誓約は撤回できた。農奴制がなくなって、契約主体になれる自由身分を万人が得た後は、契約されない支配行為は不正義とみなされるようになる。産業社会初期の工場に雇われた工員の悲惨な環境さえ、契約によるものとされた。
 現在の欧米諸国では、会社の上司と部下でも、国の役人と民間人でも、上下関係は職務にもとづいて明確に規定された範囲内になければならないと、考えられている。恣意的な地位の濫用や人格支配は不正義であり、職務義務をはたす意欲と能力に欠けるものは罷免されなければならない。フィンランドではこの原則がそうとう厳格に守られているのだろう。外からの規範としてだけでなく、個人意識のなかに染み付いた無意識としても。自分もそうだから、政府や自治体が彼らの納めた税や保険金を、不正や非効率で目減りさせることなく還元してくれると、信じられる。
 日本の主従関係は、少なくとも江戸時代中期以降、上から下まで人格的な要素と切り離せなくなっていた。農村の本家・分家でも、大名と家老でも、法的あるいは制度的役割が、恩と報恩の意識で運用される。奉公に出れば、主人の庇護に身をゆだねて服従すべきなのである。どこまでが職務権限でどこからが個人的恣意なのか、線を引くことが難しい。関係が良好で親和感が高揚している場合は、個人の心に強い安定感をもたらすが、破綻すれば泥沼にはまる。
 現在の日本では、西欧的な契約関係が表向きの規範としては支配的である。だが心の奥底に残る序列感覚の湿地はまだ乾ききっていない。個人の心を、法的・制度的な外部規範と内面的な湿った序列感覚が占める割合は、人によってさまざまである。後者の割合が大きい人は、職場での自分のハラスメント行為を、恩愛表現と区別できない。人格関係で職務上の地位を左右し、地位を濫用して個人的便益を図っても、内面からの罪悪感は生まれない。汚職、職務上の不正行為、非効率な職務執行の温床の根強さを、自分の内面に照らしてわかってしまえば、お上を信頼することはできなくなる。だから税金は取られたくないし、国民年金料も払いたくない。
 序列感覚が強い人は保守系ばかりではない。左翼にも左翼過激派にも市民活動団体にもいる。ただ公権力に近い保守系の人はあからさまに法や制度に取り入れたがり、公的地位から遠い人は、自分の組織のなかでひそかに満足させようとする。保守でも革新あるいは市民派でも、西欧社会の公的規範をよく知っている人は、公然と序列秩序を主張したりはしない。だが実際の行動で、自分のなかの無意識をどれだけ抑えられるかは、また別なことである。
 日本で本当の教育改革が難しいのは、教師と生徒の人格的親和が望ましいと考えられているため、けっきょく序列意識が賦活されてしまうからである。家族のなかでともすれば母親が抑圧的になりがちなのと、同根だろう。フィンランドで教育改革が成功したのは、教師は専門性が極めて重視され、生徒に対する職務義務は強調されても、母親的役割は期待されなかったからではなかろうか。
 (この項終わり)