水芭蕉の森 ムダの効用 39つづき

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 いま外は雨、気温は零度をかろうじて上回る程度です。連休中の天気ははかばかしくないみたい。昨日午前中
 
薄日が射したので、Hoさんを誘って網走湖畔呼人の森を歩いてきました。低地の1キロ余はずっと水芭蕉が咲
 
き誇っています。去年は5月第一週でも奥はまだ蕾だったのに、今年はどこも全部開いていました。肌寒い日々
 
が続いているにもかかわらず、雪解けが早かったのでそろって開花したのでしょう。
 
 
                      〔ムダの効用〕
 
  39 まつろわぬ者たち() 昨日の続き
 
鬼頭宏の表1を基に、列島を大きく6地域に分けて人口の推移をまとめました。①から⑤の単位は人です。
 
地域/年
BC900
AD200
725
800
900
②/①
⑤/②
東北
39.500
 33.400
284.500
266.300
562.200
0.85
16.8
関東
7.700
 99.000
779.700
970.900
1.461.700
12.9
14.8
17.700
160.200
863.200
1.059.600
1.320.500
9.1
8.2
2.000
100.500
960.300
1.179.900
1.236.000
50.3
12.3
中国四国
1.600
96.700
1.065.400
1.332.200
1.079.100
60.4
11.2
九州
6.300
105.100
  559.100
697.500
781.900
16.7
   7.4
合計
75.800
594.900
4.512.200
5.506.200
6.441.400
7.8
10.8
中部地方:現在の新潟・冨山・福井・山梨・長野・静岡・愛知・岐阜
近畿地方:現在の京都・大阪・奈良・滋賀・三重・和歌山・兵庫
 
縄文末期は総人口の52%が東北地方にあり、近畿地方は3%に満たず、列島西部全体でも13%です。AD200年の東北地方は続縄文時代。上表では区別していませんが、この時期に東東北(秋田・山形を除く東北4県)では縄文盛期に比べ、全国平均の71%減よりはずっと小幅の、7.400(盛期の20)減にとどまっています。ところが弥生時代AD200年には、近畿が総人口の17%、列島西部全体では51%を占めるようになり、東北地方は6%弱に後退しています。比率は完全に逆転しました。表で右から2番目の欄はこの1100年間に各地域の人口が何倍になったかを示しています。東北地方は0.84倍に減少し、近畿と中国四国はそれぞれ50倍、60倍の増加です。AD200年から平安前期の900年にかけてのこの間、東北も人口が16.8倍になりますが、それでも同じ時期の他地域から飛び抜けた割合で増加したわけではなく、それまでの拡大の遅れを取り返したとは言えません。
縄文末期から近畿王朝が列島支配を確立した平安時代前期までの1700年間は約72.6倍の人口増加率で、縄文最盛期に至る3800年間の13倍をはるかに凌駕しています。鬼頭宏は4世紀から7世紀にかけて低温期だったとしています(前出書64)。この人口爆発は自然環境の好転ではなく、食料生産の前進によるものと考えられます。農耕は火山噴火、地震、洪水、津波旱魃,冷害などの自然災害で打撃が自然経済より大きくます。しかし食料や資材の備蓄、広域的な融通や分配があって技術が継承されていれば、比較的速やかな回復が可能だったでしょう。
文明化以後の人口への打撃は、むしろ大規模な戦争や疫病のほうが大きかったと思います。中国の史書春秋戦国時代から漢帝国樹立の間に、敗軍の将兵数十万人が殺戮される会戦を幾度か記録しているようです。カエサルガリア戦争で100万人を殺し100万人を奴隷にしたと伝えられています。疫病の蔓延は文明の特徴です。家畜の飼育やヒトと野生動物の生活圏接近で、動物由来の病原体が変異してヒトに感染しやすくなります。そして人口集中と交通の発達が感染を加速し拡大します。戦争で住民が大量死したり追い出されたりした地域、疫病で大幅に人口が減った地域は、やがて武力と免疫に守られた新住民の移住で人口が回復しました。    
8世紀には飛鳥・奈良など畿内を本拠地とする首長の系統が、東北地方北部を除く本州全域を支配する王朝に成長しています。最初に潅がい稲作が上陸し、中国や朝鮮半島との交易で有利な地位を占めていたのは北九州です。吉備や出雲の有力な首長は、725年の段階で6地域のなかで最も人口が多くなる中国四国地方に根を張っていました。彼らを抑えて近畿勢力が覇権を確立できたのはなぜか、この表を列島地図と照らし合わせることで、理由の一端が推測できます。
各地に割拠する首長たちの力の最終的な根拠は、生産物の余剰を収奪する対象となる住民の数だったと思います。潅がい稲作を中心とする食料生産の発達で、生産性は高くなっています。生産物の一部だけで農民とその家族の必須消費をまかなうことができます。そしてその余剰が首長層の下に蓄積されて彼らの富になります。蓄積が大きければ大きいほど、武器や兵糧をそろえて兵士を増やし、巨大な墓や希少な宝物で威力を誇示できます。交易にしても、農民から集める余剰とその一部で養われる職人たちの生産物が対価になります。けっきょく、より多くの生産者を支配できる首長が競合を勝ち抜いたと思います。
北九州の首長層が南に支配領域を拡大しようとすれば、文化の異なる南九州住民の抵抗を打破しなくてはなりません。東に拡大しようとすれば吉備や出雲の有力勢力とぶつかります。それらを排除する力を蓄えるには、北九州は狭すぎたのだと思います。吉備や出雲は九州の勢力と近畿の勢力に両端を抑えられています。それに対して近畿勢力は、中部・関東という、相対的に首長層の成長が遅く伸び代の大きい後背地をもっています。埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣の銘文から、おそくとも5世紀には、この地の有力者が近畿王朝に忠誠を捧げていたことがわかります(参照:吉村武彦『ヤマト王権岩波新書 4346頁)。表の数字から、中部・関東の首長層を支配下に組み込むことで、北九州や中国四国の勢力に対し優位に立つことができたというシナリオが浮かび上がります。672年の壬申の乱でも、東(あずま―中部・関東)の兵を糾合できた大海人皇子(後の天武天皇)の側が勝利しました。
東北エミシと近畿王朝の武力衝突が激しくなるのは8世紀です。もう朝廷は九州から関東まで(東北南部も)支配を及ぼしています。725年の段階で、南部を含めても東北の人口は、全体の6%を少し上回る程度です。エミシ地域の食料生産は発達が遅れています。それなのになぜエミシはほとんど一世紀にも亘って抵抗できたのか、以上のように考えると、ふしぎな気がします。(続く)