オホーツク海の鳥と波

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

 能取岬から見晴らす11月の海は、おびただしい海鳥と白い波が印象的でした。

 
 ある公立高校が公開基準では合格している受験生を、金髪などを理由に不合格にし、その事実が判明し

て教委が高校の責任者を処分した事件が、新聞で報道されました。服装や態度が合否に影響することも、

裏基準が表ざたになって問題になることも、いはば「想定内」のこととして、わたしの注意を特に引くこ

とはありませんでした。しかし、この事件に対する投書をまとめた記事を見て、暗い気分になりました。

 この事件で思い出したことがあります。埼玉で塾をしていたころのことです。中学を終えてから会って

いなかった卒業生が、2年ほどして金髪頭でひょっこり訪ねて来てくれたことがあります。中学生の彼

は、「まじめで賢く、しっかりした自分をもっている」という印象でした。公立難関校のひとつに進学して

います。彼が自分の頭を指して、「どう思いますか」と聞いたので、かつての印象とその頭の落差にはいく

らか戸惑いながら、とりあえず「別に」と応じました。それからなぜ染めたのか尋ねたら、「こうすると相

手の態度が変わるのがおもしろくて。その人の本音がわかるから、」が彼の返事でした。「へえーそうな

の。君は君なのにね、」とわたし。かつての彼への信頼を再確認しました。

 投書では学校を擁護し教委の処分を批判するものが圧倒的多数で、反対意見の少数は、身なりや服装で

判断するのはいいが、裏基準であったことはいけない、というものだそうです。「君は君なのに」とか「金

髪で受験に行った動機は?」とかの意見はなかったようです。序列秩序にうまく順応して知識は豊富な人

材育成が目的で、「世間の常識」をはみ出しそうな芽をいち早く潰す。一時代前の教育観が世間でも学校で

もいまだ根強いみたいです。

 「うざい」「ねくら」「KY」の類の言葉が繰り返し流行するのは、大人のそういう教育観への幼い順応なの

ではないかと思います。自分の「常識」が多数派と一致していれば、それに反する相手は無条件に排除して

いい、という気分が感じられます。「何に反発しているのか、その理由は何か、ちゃんと考えてごらん。

わかるように説明してくれたら君に賛成できるかもしれないから。」幼いうちから子どもの問題意識を正

面から受け止め、それを根拠のある表現に洗練するように促し援ける。そういう環境で育てば、異論への

反発をきちんと根拠付けず、そのまま感情的に表現する大人にはならないでしょうに。例の論文の田母神

さんなんかも、そういう育ちが欠けていたのかな。

 金髪の受験生には、なぜその格好で来たのか、面接で理由を語らせればいいと思います。彼の意見が面

接官の価値観と合うかどうかではなく、幼いなりにも吟味に値する主張なのかどうかを判断します。論理

的思考の習慣はそれ自体学力の一部です。それに、問題意識は学びの貴重な出発点です。不利になるかも

しれないとわかっていて敢えて金髪で来たのなら、その人なりに主張したい問題意識があるのかもしれま

せん。他の受験生に「カッコつけ」を誇示する以外何も考えていないなら、学力に問題があります。

 学力と知識はちがうものです。問題意識があって、必要な情報を検索・吟味し、客観性のある表現にま

とめあげ、根拠にもとづく議論を他人と交わし、合意できる集約点に詰めていく、そういう学力が何より

もだいじな時代になっていると思います。