硫黄山 公共討論空間

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 屈斜路湖の近くに、いまなお噴煙を上げている硫黄山という活火山があって、観光シーズンになると、

たくさんのツアー客でにぎわいます。息子たちと訪れた3月19日は、レストハウスは営業していました

が、除雪車が動いているだけで、ほとんど貸しきり状態。夏場のように駐車料金を取られることもなく、

雪にけぶる景色を静かに鑑賞しました。


〔公共討論空間〕

 またまた『貧困の終焉』からはじめる。この本のなかにある、著者(サックス)が分析的協議と呼ぶアイ

ディアが、ずっと心に残っていた。分析的協議とは、「対立する意見をもった人々をひとつの部屋に入

れ、データや基礎資料をもとに時間の制限なしにじっくり討論させると、最初はとうてい越えがたいと思

われていたメンバー間の意見の相違がやがて妥協点を見つけるという仮説である。」彼は、多くの国際的

な会議の経験から、この仮説が正しいと信じるようになった。だからサックスは、グローバルな貧困の克

服を、その過程にある数々の困難はリアルに認識しながらも、基本的には楽観している。

 わたしはずっと、社会は客観的で広い見識に基づく正当な議論をやがては受け容れるはずだという信頼

と、この信頼を次々裏切るように感じられる政治的な決定、思潮、論調に対する絶望との間を、往復して

いたような気がする。基本的には信頼に賭けたい。絶望にとらわれたら、暴力的革命やテロに加担するし

かないではないか。だから、未来を担うべき若者の間に、なぜ短絡的で情緒的な守旧感情が広がるのか、

知りたいと考えてきた。

 『貧困の終焉』を読んで、少なくとも専門家の間では著者の言う分析的協議が有効なのだと、ひとつ安

心できた。だがパワーポリティクスが、データにもとづく専門家の客観的な議論の場を狭め、その結論を

ゆがめている現状がある。それがなければとうに、著者の主張に沿う行動が、世界のいたるところで実行

に移されているはずだ。そして世界はずっと平和になっていた。現在の、少なくとも先進自由主義諸国で

は、国民多数の政治感情や世論が、権力を託すべき指導者の選択に大きく関わるようになっている。だか

ら、専門家だけでなくしろうとの国民の間にも、「分析的協議」が広がる必要がある。

 わたしは、若者の間にもノスタルジックな保守感情が広がった理由のひとつが、インターネットやテレ

ビなどの情報メディアによる、情報環境の現状ではないかと思っている。ネットやテレビ以前の活字情報

は、その文脈をたどろうとすれば、ある程度の知的努力が必要だった。そのため、他人に提示できる社会

的な見解をもつようになる人は多くない。だが、この少数者は、知的能力には高度化への衝動があるの

で、複数の見解を参照したくなる。データや基礎資料へのアクセスがいまよりずっと限られていたから、

流通する見解は偏ったり狭かったりした。それでもオピニオン・リーダーとなる少数者の間では、討論が

成立する可能性がいまよりは大きかった。

 ネットやテレビの情報はかつての活字情報に比べ容易に入手できる。そのため、昔よりずっと多くの若

者が、自分の意見をもつことができる。もともと若者は知識と経験の幅が高齢者より狭く、単一の情報に

対する感受性がより強い。容易に入手できて繰り返される見解に共感しがちである。そしてそれを、キャ

ッチ&コピーで他人に提示できる。文脈を吟味する機会の少なかった人が、流行を自分の意見と勘違いし

て主張するとき、データを参照して討論する手間を嫌がり、反対者に対して感情的になりがちである。

 しろうとの間に「分析的協議」的な公共討論空間が成立するためには、情報批判の能力を育てる教育

と、文脈吟味を促す情報環境の二つが必要になる。前者はともかく、後者については、検索技術の進歩に

よりその可能性が見えてきた。雑誌『科学』(岩波書店)の今年4月号で、高野明彦がこの点を論じてい

る。次の機会に彼の主張に触れてみたい。