冬の花

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 最初の二枚、こんな感じの花が確かあったような。霧氷の花は本物よりもっと短い命です。撮ったのは和琴半

島の温泉に近い場所。美幌川沿いではこの形を見たことがありません。残りの、イネ科植物についた霧氷の形

は、草原や水辺ならどこにでもあります。でもまもなく季節が終わりです。


政治の現在と未来についての感想 9

                             ――― 放射線被曝の安全基準

 

 事故でフクシマ原発から大量の放射能が飛散し、公的にも私的にも、放射能汚染への対応が


きな問題になっています。公的には、どの程度の線量で立ち入り、居住、栽培飼育、摂取を認


めるかの線引きが課題の一つです。


 低線量被曝の健康リスクについて、わたしはこう理解しています:セシュウム137放射線の軌


跡が一つでも細胞核のDNA分子を通過すれば、そのDNAは確実に傷つく。細胞にはDNA損傷


を修復する機能はあるが、いつも完全に修復できるわけではない。修復ミスが起きたDNAが細胞


増殖にかかわる遺伝子の一部なら、細胞ががん化する場合もある。低線量被曝で放射線が細胞


核DNAを通る確率、修復ミスが生じる確率、そのDNAが細胞増殖にかかわる遺伝子の一部で


ある確率、がん化した細胞が免疫をかいくぐって増殖する確率はそれぞれ小さいので、ごく低い


線量の被曝でその全部が重なり、実際に発病する確率はわずかだ。ただし、これ以下の線量な


らまったくリスクがないという基準は存在しない。線量が増えるにつれて発病確率も大きくなる。


 X線を使う肺がん予防検診については、早期発見で死亡率が下がる確率と、検査被曝、偽陽性


者のCT被曝や不要な治療で死亡率が高くなる確率と、どちらが大きいかについては以前から議


論がありました。ほとんどの先進国ではリスクのほうが大きいと判断され、X線検診は行われてい


ません。日本では専門家の多くが検診を肯定しています。がんの原因が検査被曝だと判定され

た患者はいないが、検査で命が助かる患者は確かにいる、と考えるのでしょう。発病には、自然

放射能原発由来の放射能、核実験の残留放射能、発がんリスクが指摘される食物、修復機能

の個人差や喫煙など、たくさんの要因が考えられ、さらに低線量被曝から発がんまでには、数年

から数十年の時間差があります。特定の患者のがんに検査被曝が影響しているかどうか判定す

ることは無理です。しかしそれでも、一般検査やCTによる被曝(偽陽性の場合)が新たに加わり、

他の要因との相乗効果で発病に至る可能性は否定できません。リスクのほうが大きいという外国

の判断は、疫学調査にもとづく確率計算の結果のようです。日本ではその検証がほとんど行われ

ていないので、政府は「科学」の名において決定の公共性が担保されていると主張できます。日

本の放射線医学はリスクを軽視しているという批判は、3・11以前からありました。


  「科学」が政治判断の根拠になる構造は、フクシマ原発関連の安全基準でも共通です。ところ


、警告もされていなかった311地震津波の被害があらゆる想定を超える規模だったこと、安全


なはずの原発で深刻な事故が起きたことで、「科学」に対する不信がかつてなかったほど高まりま

した。同時に政治の機能不全に対する批判と絶望もますますつのっています。政府が決める基準

や地域区分を信じないで、家族で東北や関東を離れたり、母子だけが避難したり、自分で線量を

測ったりする人が少なくないようです。あるいは危険だと言われても自宅に戻りたがる人もいま

す。公的決定を信頼せず私的に判断して行動したいという気分が、だんだん目立つようになりまし

た。


 仮に、年50ミリシーベルト以上で帰還困難、年50~20ミリシーベルトで居住制限、年20ミリシ


ーベルト未満は避難指示解除と、公式に決定されるとします。なんらかの線引きがないと、政府


は汚染された表土やガレキなどの処理、被災地の復旧、被害者への補償といった事業をうまく進


められません。しかしわたしが理解するように、これ以下は安全という閾値がないのなら、個々人


はこの線引きで自分の行動を指図されることに納得できないでしょう。年19ミリシーベルトで、幼


い子が将来がんを発症する可能性が大きくなることは絶対ない、とは言えません。残り少ない人


生を年51ミリシーベルトの故郷で過ごしたいと望む年配者を、首吊りしようとしている人と同列に


は扱えません。この問題では、価値観や人生観がからむ個人の主観的決断を、審議会の「科学


的」な意見に基づく公的決定が阻む論理的根拠はないのです。しかし、個人個人の千差万別の


主観的決断をすべて尊重しなければならないとすれば、不特定多数者を統合して事業を行う政治


は機能しなくなります。


   放射能汚染の安全基準はひとつの例です。さまざまな場面で公と私の絶対的矛盾がどんどん顕

 在化しています。それが政治の機能不全が目立つ最大要因ではないのかと、わたしは考えていま

 す。科学はまちがいませんが、科学者はまちがいます。金儲けと政治に使われて、科学者や技術者

 のまちがいが増幅されているのではないか、とも思っています。(続く)