朝の色 ムダの効用 36

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 日が昇るちょっと前に家を出ると、晴れていればこんな景色が見られるのが今の季節です。明るみを増していく
 
山際もいいけれど、何と言っても圧巻なのは生まれたばかりの太陽のかぼそい光に浮かび上がる霧氷並木。
 
 
                       〔ムダの効用〕
 
36 まつろわぬ者たち(3)
 
 前世紀に考古学や分子人類学などの学問が大きく進展するまで、国家以前の「原始
 
的」集団のイメージは、主として探検家、開拓者、宣教師、冒険する商人、侵攻する兵
 
士などがもたらした報告から作られたと思います。彼らが出会った集団には、国家や首
 
長社会から追い詰められて辺境に隠れ住んでいた人々が少なくなかったでしょう。また
 
「先進社会」の一員と思い込んでいる報告者の情報は、往々にしてなじみのない文化を
 
野蛮と見る偏見で歪んでいます。そのため彼らの社会では、バンドや部族は、狭い生活
 
領域だけが全世界でその外は魔物が徘徊する異界だと思っている無知蒙昧な人々の、孤
 
立した小集団である、というイメージが広がることにもなります。
 
 しかしそれら小集団の孤立は、地理的な隔壁に閉じ込められた地域以外では、古代帝
 
国から近代国家までのさまざまな国家に追い詰められた結果です。それでも大航海時代
 
以前はまだ、国家の支配を受けない人々が地球上の広い領域でくらしていて、活発に移
 
動・交流していたようです。島や大陸の海岸部にくらす人々にとって、海は隔壁という
 
よりむしろ交通路でした。例えば、大航海時代が始まる千年ほど前に、東南アジアに発
 
した人々の一部が、南太平洋を何千キロも航海して南米大陸へ、少なくとも近辺の島ま
 
では達しています(⑤201頁 図172 篠田110頁)。
 
 日本列島弧は島々の連なりで、ごく近くに大陸もあります。縄文海進で海域が広がっ
 
てからも、住民は活発に交易・交流を営んでいました。岡村道雄は後期旧石器時代にす
 
でに渡海技術があったと推定しています。縄文時代には丸木舟が全国的に普及し、それ
 
を2艘、3艘つないで外洋航海の安全性を高めていた、とも(同前268269)。そし
 
て、「さらにこのような(それぞれの縄文集落をつなぐ―引用者)ネットワークと物流は
 
列島内にとどまらず、北は中国東北部からロシア沿海州やサハリン、西は朝鮮半島と中
 
国大陸、さらには日本海から直接ルートで東北アジアへも繋がっていたことが判明しつ
 
つある(271)」と書いています。
 
 網野喜彦も『日本社会の歴史 上』(岩波新書 1997年刊)で、「それゆえ(活発な漁
 
撈活動があり遺跡から大きな丸木舟が出ているから―引用者)、この(縄文―引用者)文化
 
がアジア大陸の北方、中国大陸や朝鮮半島、東南アジアなど諸地域の文化と、海を通じ
 
てかかわりを持っていたことは確実で、孤立した「島国」の文化と考えるのは、現在の
 
「日本国」の国境に影響された誤った見方といってよい(11)」と書いています。
 
 列島弧の島々や海岸沿いには海の道が、内陸部には陸の道が通じ、大陸とも交易路が
 
開けています。岡村が列挙する交易品とその流通圏は:石器・石材―50キロ圏から海
 
外まで。祭祀具・装飾品―南海産貝製品は千キロを越えることも。食材(魚介類や多分海
 
藻も含む海産物・塩・それに鳥獣の肉も含まれている可能性がある)―3・40キロ圏。
 
他にアスファルト(接着剤)などの日常生活物資。彼は「縄文人の「世界」は、現代に劣
 
らぬほど広かったのである」と言い(262)、 石器については、原石採集・石器作り・
 
材料や製品の貯蔵・供給は「手工業レベル」であったが、利潤を求める経済行為ではな
 
かったと考えています。(264) 網野善彦は、列島東部で大きく発達した漁撈は「すで
 
に交易を前提にしていたと考えることもでき」(同前13頁)、「集落は贈与・呉酬によっ
 
て相互に結びつくとともに、恒常的・広域的な交易によって支えられていた」(17)、と
 
しています。石川日出志は、黒曜石や蛇紋岩の石器、新潟県糸魚川のヒスイ、塩を例に
 
挙げ、「産出地や生産地が限られる物資が数十~数百キロメートルもの遠隔地まで流通
 
する事例はいくつも上げることができ」、と書いています(『農耕社会の成立』岩波新書2
 
010年刊 3840)
 
 例えば三内丸山を起点として、数十キロ圏なら道南から下北・津軽全域、秋田・岩手
 
の一部が含まれ、数百キロなら道東・道北から関東近辺にまで届きます。発展期の縄文
 
人口は26万人余で列島西部には2万人という推定(網野14)が正しければ、この交通
 
・交易圏に20万人近くがくらしていたということです。縄文人は狩猟採集文化を世界
 
で最も成熟させた集団の一つです。経済的条件だけで言うなら、分業・交易にもっと力
 
を入れ、集落間の連携を密にし、首長社会を形成することもできたのではないでしょう
 
か。ジャレド・ダイアモンドは、サケやオヒョウが豊富な川や海のある地域の北米先住
 
民が、狩猟採集経済のままで分業を進め、首長社会に入っていたとしています(98
 
)
 
 ところが、考古学的な証拠からの推定では、縄文人は特別な地位にある首長を戴いて
 
はいなかったようです。「これらの (巫女らしい女性は現れているが墓に身分差・階級差
 
がない―引用者) 点からみて、すでに呪術性をもつ首長の萌芽が、自然的な条件を背景
 
する集団の間の分業、職能の部分的な分化にともなって現われ、広域的な社会的結合
 
が見られるようになっているとしても、成熟期に入った縄文時代の社会には、制度とし
 
ての階級・身分の分化はまだみられないと考えてよかろう。(網野19)
 
 「縄文社会においては、極端に突出した階層はなかったが、各種の個人的な能力によ
 
るゆるやかな階層は存在した。時に、階層は代々受け継がれて固定する場合もあったら
 
しいが、固定的な上下関係となったり、余剰や特定の原料・設備・技術などを独占し、
 
直接生産に携わらない階層、つまり階級が誕生していたとは考えにくい。」そう考える
 
理由は:生業や各種作業には役割分担があり、祭り・呪術を司る者は存在する。だが、
 
特別に区画された住居域、特別な構造・規模・家財道具・財産をもつ建物、突出してい
 
ると判断される墓はなく、土抗墓は規格にあまり差がないものが一人一基であること。
 
(岡野260)岡野は「上下関係を作らず、いかに等距離な人間関係を構築するかに腐心し
 
ていたのではなかろうか」(284)と、縄文社会への感想を記しています。発掘された遺
 
物からの推定なので、精神生活の内実ついては感想としてしか言えませんが、その感想
 
はグイ社会を対象とした菅原和孝の文化人類学的考察と重なるところがあります。
 
 首長社会を経て国家段階に達すると、私人の自由な交易が制約されるようになりま
 
す。首長や役人の関与しない交易を禁じたり、支配・被支配と結びつく朝貢交易の形を
 
強いたり、支配層や国家が許認可と課税による分け前を要求したり。特に遠距離交易で
 
得られる希少品は、地位的財として支配層に独占され、民衆には分不相応な品になりま
 
す。部族(連合)段階にある縄文人の交易は、そういうものではなかったようです。北海
 
道でも南海産のイモガイ糸魚川のヒスイが、部族長の地位を誇示する品であったとは
 
考えられていません。ジャレド・ダイアモンドは部族指導者であるビッグ・マンについ
 
て、たぶんソロモン諸島ニューギニアでの自分の経験をもとに、「部外者が外見だけ
 
をたよりに、村のどの成人男性がビッグ・マンであるかを特定することはできない。ビッグ・マン
 
  は、みんなと同じような住居に住んで、同じような衣服や装飾品を身につけている。他

のメンバーが裸であれば、彼も同じように裸である」(⑤95頁)と書いています。部族

社会では、採集が容易な植物などは家族・仲間で消費され、交易で得た品は狩漁に困

難がともなう獲物と同じように、部族メンバーに分配されたり、共食(きょうしょく)

供されたり、共有されたりしたのでしょう。

  列島弧の全域で、8千年以上続いた縄文時代を通じて無階級状態が維持されたのに、

弥生時代に入ると首長に率いられた諸集団の抗争が始まり、数百年で西日本に王朝国家

が姿を現しています。上下関係のない社会に慣れた人々の意識を急激に変えたのは、
 
 鮮半島を経て大陸から波及してきた中華国家の序列秩序ではないかと、わたしは考
 
 えて います。しかし縄文文化が特に隆盛した東北と北海道では、ヤマトの王朝や和人
 
に対抗するため首長制は採用されても、国家的序列秩序にはまつろわぬ(服さない・従
 
わない)人々の意識が、千年を超える長きに亘って根強く残ることになりました。 (
 
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