アズマイチゲ ムダの効用 19

 健さん、お風邪のようで。ゴルフもお休みですね。おだいじに。
 
 
 そらさん、あなたの庭ではつつじが咲いたのに、ウチのエゾムラサキツツジはまだ蕾が固くて。でも昨夜の雨で
 
チューリップの芽が急に伸びたみたい。今日明日20度近い気温になるようだから、庭の植物が一気に元気にな
 
るかも。そうなると草取りがたいへんです。
 
 
 クレマチスさん、徳川庭園いいですねー。わたしも歩いてみたい。今日はアズマイチゲをアップします。
 
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 その場では気がつかなかったけれど、捨てられたティッシュがいっしょに写ってしまいました。何箇所も叢があ
 
ったのだから、別な場所なすればよかった。ついよろこんで、最初に目に付いた入り口近くで撮ってしまいまし
 
た。
 
 
            〔ムダの効用〕
 
 19 校長先生のお話し
 
 最近はあまり取り上げられませんが、ひところは毎年1月になると、成人式混乱の
 
話題がマス・メディアを賑わしていました。式に集まった新成人たちが主催者側の偉
 
い人や来賓の話を聞こうとせず、仲間同士声高におしゃべりしたり移動したりして、
 
式がだいなしになった。あるいは来賓が怒って、話をやめて帰ったとか、激高して怒
 
鳴った、とか。
 
 若者は二十歳になるまでの小学校・中学・高校の12年間で、来賓の祝辞や「校長先
 
生のお話し」にうんざりしています。わたしも、中学の三年間を例外として(わたしの
 
父である校長は3分以内で演壇を降りる主義だったので)、この種の時間が大嫌いでし
 
た。そして若者たちは、会社に入れば今度は社長や課長の訓示を、いやでも聞かされ
 
ることを知っています。やっと「大人」になったのだから、「内申書」や「出世」に強制さ
 
れないこの場くらいは、ホンネで行動したい。
 
 『会話の人類学』(菅原和孝 京都大学学術出版会 1998年刊) を読んでいて思いま
 
した。グイなどのブッシュマンはもともと、誰かに話す権利があり別な誰かに傾聴す
 
る義務がある、という関係を知らないのだ、と。それで「校長先生のお話し」の苦痛を
 
思い出したのです。明日は休校にするというような、必要な新しい情報が語られてい
 
るのなら、わたしも耳を澄ませます。有益な新情報を得るときに話者を妨げないの
 
は、ブッシュマンも同じです(菅原 同書 186)。興味を掻き立てる何の芸もない、
 
自慢話や耳にたこができている教訓めいた話を、延々と聞かされるから苦痛を感じま
 
す。グイの人々はそのような事態を回避できますが、わたしたちは逃げられません。
 
 考えてみれば、公的な場ではない日常でもわたしたちには、話す側と聞く側の役割
 
分担があたりまえです。話しかけてもいつも妻に遮られる夫は、軽んじられていると
 
感じるでしょう。愚痴を夫に聞いてもらえない妻は、ひそかに定年離婚を考えるかも
 
しれません。わたしたちは「傾聴させる権利」を認められたいようです。話を聞こうと
 
しない子どもに親のあなたは、ちゃんと聞けと怒鳴りますか、それとも反抗期なのだ
 
からと、我慢してあきらめますか。仲間との間でも、相手が話している途中で発話を
 
奪ったり、独り言を始めたりする人は、きっと嫌われます。
 
 お説教や演説ではなく会話であるためには、「話す」と「聞く」との役割交代が必要で
 
す。そしてわたしたちは、聞く側であるときは発話せず傾聴し、適切な機会を待っ
 
て、テーマから逸れないように話す側に回るのが礼儀だと、教えられています。期せ
 
ずして同時発話が起きたら、どちらかが譲るのが習慣です。同時発話が持続している
 
のを見れば、ケンカなどの正常ならざる状態にあると判断します。これらを現代にお
 
ける「会話のルール」と呼んでおきます。
 
 わたしたちの身の回りでは、「会話のルール」は遵守されていても実際には、対等な
 
役割交代が円滑にそして熱心に繰り返される会話は、けして多くないような気がしま
 
す。まず、会話以前に両者あるいは片方が立場の優劣を意識しているとき。「話す」
 
と「聞く」の役割が対称的でなくなります。「校長先生のお話し」の類がその例です。話
 
す権利と聞く義務が固定されていて、交代は予定されていません。これは一対多です
 
が、形は二人の対話でも、片方があいづちを打ったり、賛成したり、賞賛したり、謝
 
ったりする以上の発話を期待されていない、あるいは事実上禁じられているなら、構
 
造は同じです。学校や職場だけでなく、夫婦、親子、仲間などで、話す方は対等な会
 
話だと思っていても、聞く方がグチ、説教、演説、叱責と感じているときにもそうで
 
す。グチでも聞く方が共感を強制されますから、やはり話者が優位なのでしょう。
 
 次に、キャッチボールされるべき話題に、片方しか興味がない場合。「校長先生のお
 
話し」の類だけでなく、対等に見える友人関係でもよくあるパターンです。この場合、 
 
関係を損ないたくなければ聞き手は相手に気づかれないように、無視したり聞き流し
 
たりして、自分が話す側に回ろうとすることも多いようです。社会的立場でなくて
 
も、二人の関係で優位にあれば、露骨に無視したり聞き流したりできます。
 
 話す権利を対等に奪い合って夢中でしゃべっていて、会話が盛り上がっているよう
 
に見えても、実際は気持ちの交流が成立していないこともあります。逆に、自分は興
 
味がないのに相手が喜ぶ話題を無理に探そうとして、けっきょく寡黙になって取っ付
 
きが悪い印象をもたれる人もいます。「現代の孤独」として語られる心理状態は、実際
 
に話す相手が一人もいないというより、実質的な会話のできる相手がいないために陥
 
ることが少なくないのでは。「会話のルール」が守られているかどうかではなく。
 
 ちなみにわたしは、何日も誰とも話さないこともあるのですが、「孤独」を感じる
 
ことはほとんどありません。映像や活字の世界と熱心な会話に忙しいからだと思いま
 
す。本や録画番組は、どこででも話しかけたり、共感したり、非難したりできます。
 
会話にならないと思えば遠慮会釈なく無視して放棄できます。「ながら」ですむ程度の
 
音楽やスポーツ中継は、飛ばし見をしたり聞き流したりできます。グイの人々は「会話
 
のルール」など気にすることなく、平気で同時発話、聞き流し、無視、反発をします。
 
それで、身体性に裏打ちされた実質ある会話を成立させ、共同社会を営んでいます。
 
次回はその様子を。(続く)