雪の結晶 ムダの効用 11
まりさん、五線譜で囲まれた仮面、印象的な映像ですね。こちらはようやく少し冷え込んで、湖で氷上
ワカサギ釣りが始まっています。スケートもできるみたいだけれど、美幌町では屋内リンクです。
外歩きを慎んで、玄関先で雪を黒い紙に受けて撮ってみました。接写レンズがないので小さいのが残
念。またいつか一ひら一ひらの形がもっとよくわかるように工夫してみましょう。
〔ムダの効用〕
11 北海道の縄文時代
北海道では、紀元前3万年前後と推定される旧石器もわずかに出土していますが、大量に発見されてい
るのは、前2万年ごろからのものです。特に黒曜石の大産地である白滝(大雪山系東北山麓)一帯では、2
0haの地域から90以上の遺跡が発見され、数百万点に及ぶ後期旧石器時代の遺物が掘り出されました。
すぐれた製造技術で作られた鋭い刃をもつ小さな石器(細石刃)が、骨、角、木の枝などに装着され、狩の
武器や獲物を解体する道具として使われたと推定されています。
最終氷期(11万年前から1万年ほど前まで)のほとんどの時期は、後のサハリン島、南千島諸島、北海
道島が一まとまりで、大陸から南にぶら下がる半島の状態だったと考えられています。ただし津軽海峡
は、今より狭かったものの閉じておらず、本州島とは陸続きではなかった、と。現生人類(ホモ・サピエ
ンス・サビエンス)のうち、アジア大陸を北上してきたモンゴロイドの一部が、陸橋となっていたベーリ
ング海峡を経てアメリカ大陸に渡ったとされています。彼らと別れ、南下するマンモス、ナウマン象、バ
イソン、ウマなどの大型哺乳類を追って来た人々が、北海道に旧石器を残したのでしょう。彼らは陸棲動
物を狩るほかに、短い夏季と秋にはクロマメノキ、コケモモ、ガンコウラン、ホムロイイチゴ、オニグル
ミの実なども採集しながら、移動する生活をしていたと思われます。
最終氷期が終末に近づくにつれてしだいに気候が温暖化し、海峡に隔てられた北海道島が成立します。
動植物の相が遷(うつ)り、2千年ほどの移行期を経て、新石器時代(縄文時代)へと生活様式が変化しま
す。磨製石器が現れ、土器が作られるようになりました。土器は、固い食物を水で煮て柔らかくしたり、
殻のある実や燻製・乾燥させた肉や魚などを貯蔵したりできます。石皿・すり石・たたき石が出土してい
ます。ドングリなどの堅果類、雑穀、草木の根も、食料として利用されるようになったのでしょう。骨製
の釣り針や網漁に使われたらしい石の錘も出ていて、食料としての水産資源の重要性が増しているようで
す。竪穴式住居の集落跡が見つかっており、遅くても紀元前8000年(今から1万年前)には、定住性の
強い縄文的生活様式が確立していたと思われます。旧石器時代より生活が安定し、くらしのゆとりも増え
たでしょう。
田中哲郎は「縄文時代はまた非実用の道具を発達させた時代ともいわれる」と書いています(『新北海
道の古代1』83頁 北海道新聞社)。移行期あるいは縄文時代草創期のものは文様の乏しい土器も見つ
かっていますが、時代が下がるにしたがって土器などの道具の修飾がていねいに、精緻になりました。こ
の傾向は続縄文期になるとさらに顕著です。そのころ本州西部で作られた弥生式土器は文様がとても単純
です。後に本州から入ってくる土師器は、実用性にすぐれている一方で、文様が消えていました。
生産・消費・遊び(楽しみ)が渾然一体になったくらしは、旧石器人にも共通かもしれません。しかしい
かんせん生活実態を窺わせる資料はわずかです。また続縄文期以後の、擦文人やアイヌのくらしにも、渾
然一体の色彩が濃く残っています。ですが、本州島の弥生-古墳文化や歴代中央政権の影響が強くなり、
宗教、経済、政治の階層化が始まっています。わたしが8章で定義した特長を「縄文的」と呼ぶのは、縄
文時代は生活をうかがわせる資料が比較的多く、後代よりその特徴が純粋に現れていると感じられるから
です。
見つかっている遺物から推定できる北海道の旧石器時代は1~2万年間。それから2千年ほどの移行期
をはさんで、約8000年間の縄文時代になります。この時期の文化は、北海道での大陸北方との交流な
ど、それぞれの地勢や気候に規定された特徴はあっても、列島弧のどこでも質的に大きな違いはなかった
のでしょう。ただ縄文のくらしは、本州西部に比べ、本州東北部から北海道にかけて安定性が高かったよ
うです。網野善彦は『日本社会の歴史 上』(岩波新書)のなかに、縄文人口26万人のうち列島西部には
2万人、という小山修三の推計を紹介しています(14頁)。
北海道では、北九州・近畿などから弥生-古墳文化が本州北端に届くころに始まる続縄文化が、紀元前
後から800年間ほど続き、その後約500年間の擦文文化期、そして西暦1300年ころからのアイヌ
文化期へと引き継がれます。ただし、西暦500年から1000年ごろにかけて、道北東部では大陸から
の新たな渡来人によると思われるオホーツク文化が栄え、擦文文化に吸収されて終わりました。続縄文、
擦文、アイヌ、和人による開拓のすべての時期を合計して約2000年。旧石器時代は無視するにして
も、縄文のくらしが継続していた時間の四分の一、生物種の歴史尺度では一瞬のような短い時間です。
この2000年は、いち早く本州西部で始まった社会構造が、しだいに道内の人々にまで影響を強め、
現代に至って生活の表面を支配し尽すことになるまでの時間です。それは一方で、自然物を大規模に加工
して生産性を着々と向上させることで、自然環境の変動に受身で対応する文化から脱却する過程でした。
そしてもう一方では、生産、消費、遊びを分離・細分化して、別々な集団に分配することで、人々の心の
なかに、逃げ水を追うように癒されない生の不安を拡大する過程でした。縄文期までは、自分の死そのも
のは、まったく恐怖の対象ではなかったと思います。(つづく)
ワカサギ釣りが始まっています。スケートもできるみたいだけれど、美幌町では屋内リンクです。
外歩きを慎んで、玄関先で雪を黒い紙に受けて撮ってみました。接写レンズがないので小さいのが残
念。またいつか一ひら一ひらの形がもっとよくわかるように工夫してみましょう。
〔ムダの効用〕
11 北海道の縄文時代
北海道では、紀元前3万年前後と推定される旧石器もわずかに出土していますが、大量に発見されてい
るのは、前2万年ごろからのものです。特に黒曜石の大産地である白滝(大雪山系東北山麓)一帯では、2
0haの地域から90以上の遺跡が発見され、数百万点に及ぶ後期旧石器時代の遺物が掘り出されました。
すぐれた製造技術で作られた鋭い刃をもつ小さな石器(細石刃)が、骨、角、木の枝などに装着され、狩の
武器や獲物を解体する道具として使われたと推定されています。
最終氷期(11万年前から1万年ほど前まで)のほとんどの時期は、後のサハリン島、南千島諸島、北海
道島が一まとまりで、大陸から南にぶら下がる半島の状態だったと考えられています。ただし津軽海峡
は、今より狭かったものの閉じておらず、本州島とは陸続きではなかった、と。現生人類(ホモ・サピエ
ンス・サビエンス)のうち、アジア大陸を北上してきたモンゴロイドの一部が、陸橋となっていたベーリ
ング海峡を経てアメリカ大陸に渡ったとされています。彼らと別れ、南下するマンモス、ナウマン象、バ
イソン、ウマなどの大型哺乳類を追って来た人々が、北海道に旧石器を残したのでしょう。彼らは陸棲動
物を狩るほかに、短い夏季と秋にはクロマメノキ、コケモモ、ガンコウラン、ホムロイイチゴ、オニグル
ミの実なども採集しながら、移動する生活をしていたと思われます。
最終氷期が終末に近づくにつれてしだいに気候が温暖化し、海峡に隔てられた北海道島が成立します。
動植物の相が遷(うつ)り、2千年ほどの移行期を経て、新石器時代(縄文時代)へと生活様式が変化しま
す。磨製石器が現れ、土器が作られるようになりました。土器は、固い食物を水で煮て柔らかくしたり、
殻のある実や燻製・乾燥させた肉や魚などを貯蔵したりできます。石皿・すり石・たたき石が出土してい
ます。ドングリなどの堅果類、雑穀、草木の根も、食料として利用されるようになったのでしょう。骨製
の釣り針や網漁に使われたらしい石の錘も出ていて、食料としての水産資源の重要性が増しているようで
す。竪穴式住居の集落跡が見つかっており、遅くても紀元前8000年(今から1万年前)には、定住性の
強い縄文的生活様式が確立していたと思われます。旧石器時代より生活が安定し、くらしのゆとりも増え
たでしょう。
田中哲郎は「縄文時代はまた非実用の道具を発達させた時代ともいわれる」と書いています(『新北海
道の古代1』83頁 北海道新聞社)。移行期あるいは縄文時代草創期のものは文様の乏しい土器も見つ
かっていますが、時代が下がるにしたがって土器などの道具の修飾がていねいに、精緻になりました。こ
の傾向は続縄文期になるとさらに顕著です。そのころ本州西部で作られた弥生式土器は文様がとても単純
です。後に本州から入ってくる土師器は、実用性にすぐれている一方で、文様が消えていました。
生産・消費・遊び(楽しみ)が渾然一体になったくらしは、旧石器人にも共通かもしれません。しかしい
かんせん生活実態を窺わせる資料はわずかです。また続縄文期以後の、擦文人やアイヌのくらしにも、渾
然一体の色彩が濃く残っています。ですが、本州島の弥生-古墳文化や歴代中央政権の影響が強くなり、
宗教、経済、政治の階層化が始まっています。わたしが8章で定義した特長を「縄文的」と呼ぶのは、縄
文時代は生活をうかがわせる資料が比較的多く、後代よりその特徴が純粋に現れていると感じられるから
です。
見つかっている遺物から推定できる北海道の旧石器時代は1~2万年間。それから2千年ほどの移行期
をはさんで、約8000年間の縄文時代になります。この時期の文化は、北海道での大陸北方との交流な
ど、それぞれの地勢や気候に規定された特徴はあっても、列島弧のどこでも質的に大きな違いはなかった
のでしょう。ただ縄文のくらしは、本州西部に比べ、本州東北部から北海道にかけて安定性が高かったよ
うです。網野善彦は『日本社会の歴史 上』(岩波新書)のなかに、縄文人口26万人のうち列島西部には
2万人、という小山修三の推計を紹介しています(14頁)。
北海道では、北九州・近畿などから弥生-古墳文化が本州北端に届くころに始まる続縄文化が、紀元前
後から800年間ほど続き、その後約500年間の擦文文化期、そして西暦1300年ころからのアイヌ
文化期へと引き継がれます。ただし、西暦500年から1000年ごろにかけて、道北東部では大陸から
の新たな渡来人によると思われるオホーツク文化が栄え、擦文文化に吸収されて終わりました。続縄文、
擦文、アイヌ、和人による開拓のすべての時期を合計して約2000年。旧石器時代は無視するにして
も、縄文のくらしが継続していた時間の四分の一、生物種の歴史尺度では一瞬のような短い時間です。
この2000年は、いち早く本州西部で始まった社会構造が、しだいに道内の人々にまで影響を強め、
現代に至って生活の表面を支配し尽すことになるまでの時間です。それは一方で、自然物を大規模に加工
して生産性を着々と向上させることで、自然環境の変動に受身で対応する文化から脱却する過程でした。
そしてもう一方では、生産、消費、遊びを分離・細分化して、別々な集団に分配することで、人々の心の
なかに、逃げ水を追うように癒されない生の不安を拡大する過程でした。縄文期までは、自分の死そのも
のは、まったく恐怖の対象ではなかったと思います。(つづく)