雲赤く ムダの効用 10

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 日暮れの空で刻々変わる赤い模様は、雲の形や量で日ごとにちがいます。毎日外で眺めるわけではあり

ませんが、日の出が遅く日没が早い冬は、茜空を見上げる機会が増えます。


 昨日は本格的な雪かき初めになりました。湿った雪が15センチほどだったでしょうか。零度を上回る

暖かい日の雪は重くて。真冬日が戻ってくれる方がありがたいです。-20度を下回れば、ダイヤモンド

ダストも期待できますし。


               〔ムダの効用〕


10 歴史はムダな学問 ?

 人が書いた歴史に、自然科学のような客観性はありません。理由の一つは、広がりの点でも深さの点で

も、事実としての過去は連続的で、書く人が意図して切れ目を入れる前には、区切りというものがないこ

とです。

 どの部落と部落も大地や海でつながっています。先土器時代の北海道は北方大陸の一部でした。それで

も、日本の考古学者が論じるとき、光を当てるのはせいぜいサハリン、南千島までで、それ以遠は参照さ

れる程度です。国境は近代のフィクションで、当時はどこにもなかったのに。旧石器人の心に、観念とし

ての異界はあっても、人が出会う現実空間は、にじんだまだら模様のように、あいまいに広がっていたは

ずです。そして一つの出来事は、自然現象から人間集団一人ひとりの心理までの、数限りない出来事と連

続しています。

 歴史(記述)が客観的になりきれないもう一つの理由は、事実としての過去を網羅的に開示する歴史資

料は、原理的にありえないからです。

 民俗学や考古学の物的資料は、偶然発見されたものに限られます。遺物は遠い過去になればなるほど、

腐食や風化などで失われ、発見はまれな幸運になります。北海道の白滝で後期旧石器時代の大量な石製遺

物が発掘されるきっかけは、道東自動車道伸展を前にした試掘でした。木・骨・居住跡などに比べて劣化

しにくい石器は、何らかの工事をきっかけに出土する機会が多くなりました。それでも、以前の開墾や開

発工事でうち捨てられて失われたり、今なお森の奥や水底に手付かずで眠っていたりするものが、どれだ

けあるのか見当もつきません。  

 歴史時代の文献資料は、同じく部分的なだけでなく、記録者の階層や帰属意識、それに個人の価値意識

による歪みを免れません。読んだり書いたりする能力が、抗争集団の片方にしかなかったり、特権階層に

限られていたりすれば特にそうです。口承の伝説・詩歌は、先史時代の人々のくらしや意識を垣間見せて

くれます。それに、いわば集団の検閲を経ているので、個人的偏見を免れています。しかし時間に侵食さ

れて、事実関係や前後関係があいまいになっています。

 欠けている部分を推論し、文献を批判的に吟味し、各種資料を突合せる作業には、研究者の問題意識が

入り込みます。ストーリーとしての歴史は、記述者が何らかのモチーフで、対象とする時代や地域を切り

取り、ある出来事に焦点を当て、他を切り捨てることで成立します。他の人文学もそうですが、歴史作品

にも研究者の主観が織り込まれています。

 最近の歴史研究者は、客観性の強い自然科学へのコンプレックスからか、歴史(特に通史)を嫌って、

ある小さなテーマに局限して資料を掘り下げる研究に集中したがるとか。重箱の隅をつつくような作業は

だいじです。しかしその成果を編み上げた、意味のある歴史が記述されないのであれば、ムダな学問とし

て予算を縮小されても文句は言えません。

 歴史記述にまとわりつく主観性は、この学問の欠陥ではなく、価値の根拠です。歴史研究には客観性中

心の自然科学とはちがう役割があります。連続的な事実としての過去から何かを切り取り一つのストーリ

ーとして記述しようとするときに、時代に誠実な歴史家であれば、意識せずとも、その人が生きる時代か

ら突きつけられる問題意識を取り込みます。もちろん、政治的主張などを根拠付けるために、資料の示す

事実を曲げた一方的な記述をするのは、歴史の捏造であり糾弾の対象です。しかしどんなに誠実でも、時

代によって、記述者によって、角度がちがってくるのは、やむをえないというより、必要なことです。さ

まざま作品のなかから選択して光を当てるのは、それぞれの時代が胚胎する自己意識です。

 歴史認識を欠いた現状分析や未来への提言には、一時的現象を不変の事実とする錯誤が混入しがちで

す。経済の専門家や政治家の意見に、ときどき根拠を欠く根無し草のような論が見られるのは、そのため

だと思います。学問に誠実な歴史認識がないと、個人の貧しい人生体験による信条を絶対正しいと思い込

むこともあります。大きなビジョンを練り上げるには、現在を歴史的に認識していなくてはなりません。

科学技術のような経済的即効性がないからといって、歴史研究への予算がムダとして削られれば、時代は

自分を意識化する素材を得られなくなります。

 この点は文学などにも共通です。よくできた文学作品は、凡庸な心理学研究より見事なケース・スタデ

ィーになっています。あるいは、凡庸な政治学社会学よりすぐれた、時代へのコメントです。(続く)