二頭の仔馬 ムダの効用 3

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 早朝の濤沸湖畔では二頭の仔馬(もしかしたら一頭はオトナ?)がいっしょうけんめいに草を噛んでいま

した。17年ほど前にキャンピングカーで30日間北海道一周をしたとき、当時10歳の息子が乗せても

らった牧場です。馬は代が変わっていると思いますけど。


                〔ムダの効用〕

3 くらしに役立たなければムダ?

 ムダの反対を「役立つ」と定義してみます。すぐさま「何に」という目的を考えなくてはなりません。

これまでのところ、A:くらし(個体生命維持と繁殖 )B:カネを稼ぐ C:困難な課題に挑んで成功す

るという、3ついに言及しています。どれを、あるいはどれとどれを意識するかで、同じ行為がムダと判

断されたりされなかったりします。

 Aの「生存と繁殖に役立つ」は、一番確かな手応えがある目的のように見えます。しかし昔もいまも、

何らかの正義を貫こうとして招いた個人の死は、ムダどころか、高く評価されています。信仰や信念に殉

じて、あるいは家族同胞、国家、人類を護るために死んだのであれば、それは尊い犠牲である、と。見方

によっては、それらは他の人々のよりよい生を願ってのことで、繁殖行為の社会化されたバリエーション

である、と言うこともできそうです。

 そういう意味だと、子を産み育てる仕事が終わった老人は、ボランティア活動でもしていない限り、ム

ダに生きていることになります。なかなか人前で口にはできなし、できるだけ意識しないようにはしてい

ても、多くの人が心の片隅に隠し持つホンネなのかもしれません。実際に古代サルニジニアでは、介護の

必要な老人は、岩山から突き落とされて殺されたそうです。この点では、生殖が終わった直後に死を迎え

るサケやセミはまったくムダがないわけです。

 ところで、部族の神を喜ばせるため、雨乞いや築城成功のため、捧げられたイケニエの死に、本当に意

味があったのでしょうか。あるいは、太平洋戦争やベトナム戦争で没した兵士、空襲や原爆の焼死者、そ

していまもまだ繰り返されている戦争の犠牲者は?何が他者の生存・繁殖に本当に役立つのかは、その時

代、その社会の多数者が信じているほど、自明なことではありません。

 サケやセミの生涯は、すべての行動が生きて繁殖する目的に直接結びついているように見えてわかりや

すい。しかし、人は自己意識をもつので、自分の生より、精神的目的や他者の生を重んじることもあり、

単純ではありません。古今東西のたくさんの宗教家や哲学者が、真理を求める精神活動と無縁に、ただ生

きて子をなして死ぬだけの生涯は虫けらと同じで無意味だ、と説きました。時にはそういう思想が、目的

Aにとってムダな死に世人を駆り立てるために、支配力ある指導者によって悪用されました。このことは

後であらためて考えます。

 生まれてすぐに世を去る赤ん坊も、親たちの心を喜びや悲しみで耕して逝きます。耕されて深くなった

心は、周囲の人の心を暖めることができます。働くことができない高齢者や傷病者の生死も同じです。人

の社会で完全にムダなのは、木の股から生まれて、その存在を誰にも知られずに去る生涯だけです。葬式

は、本当は死者のためではなく、生者がその人の生死からよりよく意味を引き出すために営むものだと思

います。