浮島湿原の彩り 『プレミアム 3』

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 6月24日には霧多布岬のハクサンチドリはかなり枯れていたのに、7月5日の浮島湿原には花開いた

ばかりのみずみずしい姿がありました。林道脇に設けられた広場に車を置いて、徒歩で20分ほど緩やか

に登るだけですから、それほど近づきにくい場所ではありません。それでも、天塩岳、チトカニウシ山に

つながる稜線に近い森のなかで、深山の雰囲気があります。柔らかな緑のなかに点在するワタスゲの白さ

も、低地の草原より鮮やかな気がします。


           『ミレニアム 3』を読んで

 『ミレニアム』(スティーグ・ラーソン早川書房)という小説を前に一度話題にしました。いまその第

3部を読みふけっています。至福の時間を引き延ばすため、ゆっくり読み進めようとするのですが、話の

展開が気になって、上下あわせて1000ページ近いのに、どんどん残りが少なるのが口惜しくて。作者

スティーグ・ラーソンは04年に50歳の若さで亡くなっていますから、もう4作目を読むことはでき

ません。日本の作家でこれだけ波乱万丈で緻密な小説を期待できそうな才能は思いつかないし。それに何

より文化がちがうという気がします。

 第3部は政治をテーマにすえたサスペンス小説の趣があります。物語の悪役はすべて男。暗殺者、ヤク

や人身の売買をなりわいとする犯罪者、女性虐待者、レイプ犯、小児性愛者、悪徳経営者、面倒を封印し

ようとする出世主義者、根拠のないスキャンダルで稼ごうとするジャーナリスト、根っからの女性差別

義者、買春常習者など。国がかかわった過去の悪事を隠蔽しようと画策する公安警察の一派を中心に、組

織内外のそういう男たちが直接あるいは間接的にからんで、悪事の生き証人である異能なヒロインの存在

を抹殺しようと暗躍します。

 ヒロインを援けて秘められた事実を暴こうとする側には、美しくもタフで賢い女性たちが何人もいま

す。彼女たちのほとんどには、大財閥のリーダー、経営者兼編集長、弁護士、公安、警官など、ちゃんと

した地位があります。性的関係でも、男に受身になることなく、堂々と能動的にふるまいます。古いモラ

ルから開放され、いかなる強制もない当事者の合意によるものなら、どんな性愛の形もプライバシーに属

すると割り切っています。男性も、主役の一人であるジャーナリストの他に、断固として、あるいはため

らいながらもけっきょくは、憲法と人権の擁護のために、ヒロインの側に立つさまざまな人々が登場しま

す。

 両陣営による攻防の波乱万丈の展開が、わたしになかなか本を置かせません。日本のサスペンス物とち

がうのは、憲法や人権の擁護が実現可能な価値として正面に掲げられていることです。スウェーデン

も、根強い女性蔑視、外国人差別を叫ぶ狂信的右翼思想、凶悪な暴力犯罪、憲法侵犯を罰する機構の不備

などがあるから、この小説がリアルなものと受け入れられてベストセラーになり、映画化・ドラマ化され

ました。しかし北欧諸国では、それらは不正であり、正されなければならないし、正すことができる、と

いう良識が社会に生きている、少なくとも作者はそう信じています。だからこそ残虐で血なまぐさい事件

が扱われていても、作品全体に明るさが漂っています。

 人権意識や民主主義への深い信頼、そしてそれを損なうものへの熱い怒り、それこそが日本の現在に失

われているものです。中央や地方の政府、民間人だけでなく、司法権力もまた憲法を、行動を律する基準

になる現実的な法規とはみなしていません。いつかどこかで実現されたらいい美しい理念として高い棚に

祭り上げて、実際には条文の精神を踏みにじる「現実的な」解釈で運用しています。公的な場面で、職場

で、地域で、学校で、家庭で頻発している人権侵害に対して、ほとんどの被害者は、避けられない運命と

して受忍するか、加害者に加担して楽になるか、個人的な迂回路を探すか、誰かの救いの手を待つかし

て、正面からの告発を回避します。

 憲法も人権もタテマエであって、それを掲げて正面から戦いを挑むのは幼稚な正義感だという、ニヒリ

ズムが支配的です。女性も男を理解して受け入れる、あるいはそのふりをして操るのが賢いと思われがち

です。要するに正面から戦って勝利するために、緻密な戦略をめぐらせ、一歩も引かずに果敢に戦うなど

というのは、流行(はやり)ではないのです。反撃するなら狂気のテロ、あるいは絶望的な自爆として。

 だから日本のサスペンスは、権力の脱法行為を正義として追従するか、ひそやかな怨念、絶望、狂気に

寄り添うかのどちらかです。突き抜ける明るさがないのです。日本のスティーグ・ラーソンを期待できな

いのはこのためです。