川面光る
美幌川はまだ雪に覆われていません。早朝の川面は、逆光だとさざなみに反射する光だけが目立ち、順
光だと両岸まで薄赤く陽に染まります。
今朝の朝日新聞に「フリースクールの道」という記事があって、あるフリーククール運営者の次のよう
なコメントが掲載されていました。「どんな形であれ『学校』というものに合わない子はいる。それをそ
のまま認め、育つ場が学校の外に必要です。学校に取り込まれたくはない。」発言者が言ったとおりのも
のか、記者や編集者の主観で一部だけ切り取られていて、本人の意図が伝わりきれていないのかは不明で
す。どちらにせよ、以下は「」の中だけについての感想です。
わたしはフィンランドの教育理念「すべての子に学力を」が正道だと思っています。人がその人らしさ
を損なうことなく社会で生きていくために、社会と情報を交換し合うさまざまな道具が必要です。公共的
な事業としての「教育」は、ポケットのたくさんある服を作ってやるような営み。さまざまな道具が提示
され、その使い方を示されて、本人が必要な道具をポケットに入れていきます。場面に応じて本人の選択
で道具を増やしたり、取り出したりして、自分に違和感のない生涯をめざして奮闘する、それを支援する
のが、「学校」「フリースクール」など、どんな名前で呼ばれるにせよ、教育にかかわる人の役割だと思
います。
フィンランドとちがって、その人らしさを矯めて、指導者好みの人間になるように型はめすることを
「教育」と呼ぶ人が、まだ日本には多くいます。たいてい「好み」の中身が論争されているだけ、と。型
はめ圧力が強い学校から逃げ出す子どもがいるのは当然であり、彼らにも支援をという主張は正当です。
しかし同時に、わたしはそういう学校に囲い込まれて、創造力を枯渇させていくたくさんの子どものこと
も気になります。「フリースクール」もまた、別な「好み」で子ども・若者を囲い込む危険があると思い
ます。「ホームスクーリング」がアメリカで盛んになっているのは、社会が階層的・文化的に分断されて
きてきた結果かもしれません。親の「好み」で囲い込まれる子どももいるのでは?
フィンランドにも学校にうまく適応できない生徒がいます。しかし、だから「学校外で」という議論は
ないようです。「そういう子にも対応できる学校へ」と努力がなされています。「どんな形であれ『学
校』というものに合わない子はいる」という断定には、「学校に行ける子のことは知らないよ」という響
きがあります。結果として「学校は学校でどうぞ。わたしはその外を引き受けるよ」と、現在の学校を補
完することにならないでしょうか。そういう懸念を感じますので、わたしは、OECD教育部門が提唱す
る教育が日本の学校に普及し、その限界が見えたあとでなければ、こういう断言には賛成できません。
資源が少ない「フリースクール」だと、たくさんポケットのある服と、その中に入れる道具を本人が選
択する機会を、与えきれないのではないかという心配もあります。足りないところを指導者の「好み」で
補うことだけは避けたいですね。学校がその資源を「フリースクール」も利用できるように開放されたら
いいのに。実現すれば新しい教育空間創設への一歩になるかもしれません。
光だと両岸まで薄赤く陽に染まります。
今朝の朝日新聞に「フリースクールの道」という記事があって、あるフリーククール運営者の次のよう
なコメントが掲載されていました。「どんな形であれ『学校』というものに合わない子はいる。それをそ
のまま認め、育つ場が学校の外に必要です。学校に取り込まれたくはない。」発言者が言ったとおりのも
のか、記者や編集者の主観で一部だけ切り取られていて、本人の意図が伝わりきれていないのかは不明で
す。どちらにせよ、以下は「」の中だけについての感想です。
わたしはフィンランドの教育理念「すべての子に学力を」が正道だと思っています。人がその人らしさ
を損なうことなく社会で生きていくために、社会と情報を交換し合うさまざまな道具が必要です。公共的
な事業としての「教育」は、ポケットのたくさんある服を作ってやるような営み。さまざまな道具が提示
され、その使い方を示されて、本人が必要な道具をポケットに入れていきます。場面に応じて本人の選択
で道具を増やしたり、取り出したりして、自分に違和感のない生涯をめざして奮闘する、それを支援する
のが、「学校」「フリースクール」など、どんな名前で呼ばれるにせよ、教育にかかわる人の役割だと思
います。
フィンランドとちがって、その人らしさを矯めて、指導者好みの人間になるように型はめすることを
「教育」と呼ぶ人が、まだ日本には多くいます。たいてい「好み」の中身が論争されているだけ、と。型
はめ圧力が強い学校から逃げ出す子どもがいるのは当然であり、彼らにも支援をという主張は正当です。
しかし同時に、わたしはそういう学校に囲い込まれて、創造力を枯渇させていくたくさんの子どものこと
も気になります。「フリースクール」もまた、別な「好み」で子ども・若者を囲い込む危険があると思い
ます。「ホームスクーリング」がアメリカで盛んになっているのは、社会が階層的・文化的に分断されて
きてきた結果かもしれません。親の「好み」で囲い込まれる子どももいるのでは?
フィンランドにも学校にうまく適応できない生徒がいます。しかし、だから「学校外で」という議論は
ないようです。「そういう子にも対応できる学校へ」と努力がなされています。「どんな形であれ『学
校』というものに合わない子はいる」という断定には、「学校に行ける子のことは知らないよ」という響
きがあります。結果として「学校は学校でどうぞ。わたしはその外を引き受けるよ」と、現在の学校を補
完することにならないでしょうか。そういう懸念を感じますので、わたしは、OECD教育部門が提唱す
る教育が日本の学校に普及し、その限界が見えたあとでなければ、こういう断言には賛成できません。
資源が少ない「フリースクール」だと、たくさんポケットのある服と、その中に入れる道具を本人が選
択する機会を、与えきれないのではないかという心配もあります。足りないところを指導者の「好み」で
補うことだけは避けたいですね。学校がその資源を「フリースクール」も利用できるように開放されたら
いいのに。実現すれば新しい教育空間創設への一歩になるかもしれません。