した。写真はある朝の冬の相です。
名無しさん、オバマのアメリカがどうなるのか、期待と不安が入り交じりますね。
ゆめラジさん、教育の定義にかかわるわたしの考えは次のようなものです。
わたしは一つだけ出版までこぎつけた単行本の中で、こういう意味のことを書いています。広辞苑は教
育を、「人間に他からの意図を持って働きかけ、望ましい姿に変化させ、価値を実現する活動」と定義し
ている。わたしは「人間に他からの意図」の部分を「自分に自分の意図」に置き換えたものを、自己教育
と呼びたい、と。広辞苑の定義では教育の主人公が教育する側であるように感じられます。そういう活動
はかぎ括弧に入れて「教育」とし、「教育」をやめて、自己教育を支援する教育を実現しようという呼び
かけが、この本のテーマでした。
OECD教育研究革新センター(CERI)は学習をこう定義しています(『脳を育む学習と教育の科
学』明石書店 3頁)。「環境(自分以外のすべて)からの外部刺激によって、神経回路網が構築される過
程」。そして教育とは、「神経回路網構築に必要な外部刺激を制御・補完する過程」である、と。学習に
は無意識活動と意図的活動の両方が含まれていて、意図的なものの方が教育として区別されています。す
っきりした定義です。でも脳科学的な用語になじめない人がいるかな。わたしの言い方だと、「制御・補
完」する主体が自分であれば自己教育、自分以外の人が本人と協力して「制御・補完」するなら、教育と
呼ぶことになります。
生まれてから死ぬまで、学習に大きな役割があって、学習が意図的な活動にさえなることが、ヒトとい
う生物の本性に内包されているのではないでしょうか。とくにITが生産と消費の両面で生活に浸透し、
文明のあり方を変えようとしている現在では、学習の役割がいっそう大きくなっています。変化が急速で
すから、これまでのように、学校は青年期までに終わって、あとはひとつ職場で経験的に学習を積み重ね
るというスタイルでは、うまく社会に適応できない場合が増えています。
生産の場で、業種・業態・業務内容がどんどん変わるのを止めるわけにはいきません。定年まで職場を
変えない生涯を標準とする正社員の制度は、時代遅れだと思います。労働市場の流動化は促進されるべき
です。同時に、フィンランドなどで典型的なように、職業中心と学習中心の時期を生涯で何度も切り替え
られる、どちらの期間も最低限度の生活保障と学習支援が公的に(社会の共助で)保障される社会にならな
ければならない、「教育」ではなく学習支援のシステム(教育)強化が必要だ、わたしはそう考えていま
す。