湖水に映る藻琴山

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 屈斜路湖の岸近くに、水深が浅くて湧出する温水があまり薄められず、凍結しない場所がいくつかあり

ます。そういう湖水のひとつに藻琴山が鮮やかに映っていました。遠くに小さく見える人影は、御神渡り

の見学に訪れた小学生の一団です。もう一枚は峠から見た摩周岳。


 〔並行宇宙〕

 少年のころ繰り返しこんな空想をしました。自分はいま生きているが、ほんとうは病気、火事、事故な

どで何度も死んでいるのだ。実はたくさんの宇宙でわたしは同時に存在していて、死ぬたびごとに別な次

元の自分に意識のスポット・ライトが移っている。いまの次元では母が亡くなっていて、そのほかの家族

は健在だが、別な宇宙では事情がちがっているかもしれない。などというものです。

 最近、少年期のわたしの妄想に重なるところのある理論を唱える、物理学者や情報科学の専門家が出て

きています。多世界理論とか並行宇宙論とかです。以前からSF小説ではテーマになっていましたが、い

ま注目されているのは数学的に記述されたれっきとした科学論文です。「日経サイエンス」08年4月号に

も紹介されていました。

 量子力学波動関数では、同じひとつの粒子が位置、運動経路、スピンなどで、同時に複数の状態にあ

ることになっています。しかしわたしたちの経験世界では、同一人物が埼玉と美幌で同時に目撃されるこ

とはないし、バットに当たったボールが前と後ろに同時に進むこともないし、同時に右回り左回り両方で

回転するフィギャア・スケイターを見ることもありません。コペンハーゲン解釈では、状態の重ね合わせ

は観測者のいない状態でしか起きず、意識ある観測者が観測すると波動関数は収縮し、古典物理世界に戻

るとされています。通説では、「生きている」と「死んでいる」のどちらかが確定しているのが現実であり、

「生きている」と「死んでいる」の重ね合わせは仮構である、ということでしょう。

 ところが新解釈は、経験世界の大きな物体も粒子から構成されているのだから、波動関数は微小世界だ

けでなく、すべての領域であまねく貫徹していると考えます。重ねあわされたそれぞれの経路がすべて、

並行するどれかの宇宙で現実に存在している、わたしたちは自分の宇宙での経路しか経験できないだけ

だ、というのです。

 多くの人は、通説と新説のどちらが事実でも、重ね合わせが経験世界に侵入することがないのだからい

いじゃないか、と言うかもしれません。でも、。「日経サイエンス」の記事によれば、現在開発が進められ

ている量子コンピュータは、新解釈にもとづいて発想されているそうです。並行宇宙に存在するたくさん

のオペレーターの分身が、分担していっせいに処理をすることで、計算速度が飛躍的に向上するという発

想です。そうだとすれば、量子コンピュータの実用化は、状態重ね合わせの現実への侵入にならないでし

ょうか。なんだか、未来の科学はおもしろくなりそう。