トンビ
わりあい簡単に撮れます。近くで比較すれば大きさが歴然とちがいますから、この二種の区別は容易です
が、大空を舞っていたり遠景だったりするとどっちなのか迷います。それでも少しだけ、遠くからでも判
別できるようになりました。高くなった氷の頂点や広い氷原にじっとたたずんで、辺りを睥睨していれば
オオワシです。トンビはそれほど落ち着いていません。飛んでいるときは色がわからなくても、尾の形で
区別できます。撥型ならトンビです。
今日の道東は大荒れの予報です。いまはまだ雪かきをしなくても車を出せそうですが、さらに降り続く
とか。夕方には手術準備のために着けている24時間心電図記録装置をはずしてもらいに、病院に行くこ
とになっていますので、あまり積もってもらいたくないな。
グールドの本の感想を続けます。
グールドは自然を対象とする科学という認知領域(わたしは便宜的にA領域と呼びましょう)と区別し
て、倫理、道徳、意味づけ、哲学(わたしは文学や芸術も含めたいと思います)などを考え、この領域(B
領域)を宗教に代表させています。この本を読み終わっても、わたしはB領域が宗教でなければならない
理由が完全には納得できませんでした。この点と二つの領域の境界線に曖昧なところがある点を除けば、
彼がなぜ熱心に倫理や意味づけを科学と区別したがるのかは、かなり腑に落ちました。どう了解したか別
にまとめます。
個体としての人の死亡率は100%で例外はありません。大人なら人はだれでもそれがわかっていると
思います。この「わかっている」はA領域の認識です。わかっていても、わたしたちは親しい人の不慮の
死には心を痛めます。特にそれが他人から理不尽にもたらされた暴力的なものであれば、相手に憎しみを
感じます。また自分について、死亡率100%を知ってはいても、ふつうはいつか遠い日のこととして意
識の外においています。そして、あるとき期日の迫った切実な問題として自分に突きつけられると、たい
ていにわかに狼狽し不安になります。この二つの事情は、わたしたちがB領域を求める理由の大きな一部
ではないでしょうか。
うろ覚えですが、死が避けられない状態に置かれた人の心の葛藤にはいくつかの段階がある、と書かれ
たものを読んだことがあります。なぜ他の人ではなく自分なのかという怒りの段階、生き延びられるなら
自分に大切な何かを差し出すという神あるいは運命との取引の段階、静かなあきらめの段階、などが挙げ
られていたような。前回の引用でわたしの動揺がいくらかやわらいだのは、自分にはこのややこしい段階
が省略できそうだという、予感を与えられたからかもしれません。
自然は人に無関心だ、だが自然が人の願望に左右されない確固とした非情な存在だからこそ、自然の仕
組みを新しく知ったり、自然の中に美しい部分を見つけたりすると、わたしは無上の喜びを覚えるのだ
と、あの記述から思い出したようです。巨大で、人に対して非情な自然のごくごく小さな小さなひとかけ
らとして、わたしは生まれて死ぬ、そういう認知がある種の救いだったようです。これも宗教的意識なの
でしょうか。個体が死すべきものだから生物は進化し、社会は発展します(進化と進歩の根本的なちがい
もいつか論じてみるつもりです)。これはA領域に照らし出されたB領域の認知ですよね。