科学と宗教 2

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 (昨日の続きです)

 神やあの世を信じて心が安らかになると言う人の気持ちは尊重します。死んだら妻や父母に会える

という考えは、わたしにもとても甘い誘惑です。根拠を示してをそう信じさせてくれる人がいたら、わた

しは感謝します。

 しかしいまのところ、物質(アインシュタインの有名な公式にあるように、エネルギーも物質のひとつ

の形態です)に媒介されない情報の実在の証明にも、その可能性の合理的な論証にも、わたしは出会って

いません。たしかにその不在もまた実証されてはいません。ですから信仰によって淵を飛び越えることを

否定しようとは思いません。でもわたしは、根拠を示されない論を疑う立場を捨てられそうもないし、そ

れを捨てるように迫られたら、自分の存在そのものを否定されているように感じてしまうでしょう。

 何らかの形で信仰と科学的態度を自分の心のなかに共存させるのはかまいません。しかし、根拠を示さ

れない論を疑う思考が抑制されたら、科学はうまく発展できないと思います。科学技術の振興を望むので

あれば、学校のカリキュラムをいじる前に、根拠を吟味する論理的態度の擁護が明確に宣言されなければ

ならないはずです。

 教育基本法で宗教への寛容と尊重を謳うのであれば、わたしのような科学への信心も寛容に尊重すべき

ことを、同時に謳うべきです。さもなければ、公共性を代表する法は、宗教であれ無神論であれ、個人と

しての個人の心の領域に、一切関与しない原則を貫くべきです。

 『美しい国へ』を読むと、作者の、「ひとつの家系が千年以上の長きにわたって続いてきた」天皇制へ

の敬愛も、「大義に殉じ」た特攻隊員への賛美も、根拠を示した論ではなく、個人的な信仰告白のような

ものであるとしか思えません。個人がこのような作品を発表する権利は擁護されるべきです。しかし、一

国の政治指導者が、個人的な情念にもとづく政治を展開するとしたら別です。安倍首相は、国民の理性に

訴えて国の政治的合意を形成しようとする政治家としてではなく、民衆の情を掻き立てて異見を排除する

扇動家として「闘う」道を、選ぶつものなのでしょうか。