リクエスト本がどかっと届いた
暮れからリチャード・ドーキンスの『祖先の物語』に取り掛かっていて、やっと下巻の三分の一ほどま
で進んでいたんです。そこへリクエストの本が届いたと連絡があって図書館に取りに行ったら、なんと、
厚い本が9冊どかっと積み上げてあるじゃないですか。係りの人が「だいじょうぶですか」と聞いてくれ
たんですが、「だいじょうぶじゃないです」って返事したら、彼女も困るだろうと思って、「だいじょう
ぶです」と、そのまま全部借りてきました。
2週間で読みきるのは骨だし、ドーキンスも残っています。さいわい硬い本は一冊だけで、あとは小説
が7冊とやわらかい社会学関係の本です。しばらく『フィンランド』のリライトや映画鑑賞を少なくし
て、取り組んでみましょう。というわけで、今朝は1時半に目が覚めましたので、甘い二度寝をあきらめ
て、三崎亜記の『失われた町』(集英社)から始めました。
やっぱり小説はいいですね。まだ四分の一程度ですが、あちこちで心の真実がきらっと光っているみた
いで、うれしくなります。テーマは喪失感でしょうか。町が消えるというフィクションは、痛切なのにつ
かみどころのない感情に、形ある表現を与えるための枠組みなのですね。構成の巧みさに作者の力量を感
じさせられました。「理由もなく失われる命」とか、「失われたものへの癒しなど存在しない」のような
文句が、詩の一節のように浮かび上がります。
『フィンランド』のような「大説」を書いていると、「お前、ちゃんと調べつくしてそう言ってるの
か」、「ほんとうにわかって書いているのか」などという、内心の声が聞こえて、つきまとう「ウソくさ
さ」に悩まされます。他人の「大説」でも同じです。でも、整った科学理論とすぐれた小説は、まちがい
なく真実を含んでいると実感させる力があります。小説はフィクションなのに真実を表現できて、事実を
扱う社会的評論はウソくさくなる。わたしは分野の選択を間違ったのかな。とはいっても、やり直す時間
の余裕はないし、だいいち科学や小説をやる才能もなさそうだし。