必修科目未履修問題再び

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

 昨日の続き。だいたい学習内容を文科省が細かく指図するのが間違ってる。新しい教育理論を研究し、それを実施するのに役立ついろんな材料を蓄積し、学校や教師が利用できるように開示するのは、中央教育機関の仕事だよ。でも、それをどう具体化するかは現場の裁量にゆだねなくちゃ。
 高校の位置づけがあいまいだよね。大学の勉強で必要になる能力を準備するのが役割のひとつだってことは確かだよ。それじゃ予備校と同じだった言うかもしんないけど、同じで何が悪いの。ま、大学が入学後に必要になる能力をちゃんと確かめる入試をやってないから、問題なんだけどね。検索すればすむような知識の暗記じゃなくて、進学の動機、その動機に沿う情報の検索・批判・再編の能力、そして表現力を確かめる入試になってたら、入試準備と日ごろの勉強の区別はなくなるよ。そういう勉強で進んでる予備校があったら、高校にすりゃいいじゃん。
 直接的な職業能力の訓練を、大学の準備をする学校でやろうっていうのは、無理があるんじゃない。フィンランドみたいに高校と別に職業学校を設けるほうが合理的だよ。向こうじゃ高校は大学と専門大学の準備をするとこで職業の準備はしないから、高卒と中卒の賃金はおんなじだもんね。職業学校出なら中卒と大卒の中間の賃金になるよ。日本は職業能力じゃなくて、なんかあいまいな序列意識みたいなもんで格付けして、職業学校が高校より下みたいに見る風潮があるんで、分離に抵抗があるだろうけどね。
 大学で学ぶ準備や職業能力以外に、なんかありがたーい「教養」てもんがあるって、迷信じゃないの。これからの情報社会じゃ、学問するにも、研究するにも、仕事するにも、専門以外の領域に対する関心や問題意識もだいじだよ。クイズの答えみたいな知識じゃなくて、自分が生きてく現実に対する生々しい関心がね。生徒からそれを引き出して、情報の検索や処理の技能に結びつけるのって、大学準備教育や職業教育の一部じゃん。それ以外の「教養」ってもんを持ち出すのって、自分の古くさーい道徳観を若いもんにお説教したいっていう、ジーサン・バーサンやオヤジ・オバハンの助平根性じゃないの。

 今日の写真は北見緑の丘公園の落ち葉散り敷く散歩道。