老いのかなしさ、強度の低下

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 写真は町の小さな公園のもみじです。

 昨日、前にDVDにとっておいた『誰がために』という映画を見た。05年の作品で監督は日向寺太郎。たいせつな妻を未成年の若者に殺された男が主人公だ。見ているうちにひとりでに19年前に逝った妻のことを考えていた。気がついて情けなくなった。当時はこれから独りで生きるよりは一緒に、などとも思った。幼い息子がいたから本気にはならなかったが。それなのにいまは、外からこの映画のような刺激がないと、妻のことを深くは考えない。感情の強度が低下していることに気づいた。
 思春期前期には少年誌の表紙を飾る少女の顔写真にも欲情できた。最近はエロい映像でもよほどエグイものじゃないと感じない。喜びでも悲しみでも怒りでも、波が高いほうが生きている実感が深いと思っていたのに、いまは鈍いほうが楽になのかもしれない。老いとはこういうものなのだろうか。自分のなかの何かが、何も感じなくなる日への準備を勝手に始めているような。
 抵抗したい気持ちもある。実生活を乱すことのないものなら、心を強く揺さぶるものを歓迎する。以前のような、こんなのはみっともない、みたいな自己規制は弱くなっている。じいさんのあつかましさ、エロジジイ現象かな?
 考える能力が衰えているとは思わない。若いときならわからなかったようなものごとの関連が、今はわかると感じることもある。ただその思いつきが自然に湧いてくるというより、外から刺激を受けて浮かんでくるようなのだ。内発するものの強度の低下、それがかなしい。