フィンランド・モデルは好きになれますか 32

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第一部
 今日はこれから斜里、知床、野付、尾岱沼を回る小旅行に出かけます。一泊して明日夕方帰ります。
 写真はヤマハギです。

第二部
 フィンランド・モデルは好きになれますか 32

4 福祉と経済

(2)情報・サービス社会の教育(承前)

〔学習者の要求への信頼〕
 どのように学習するかの次に来るのは、何を学習するか、である。ここでは「情報に基づいた学習者の要求への信頼(Trust the informed learner’s demand :TILD)」が原則とされる。

  明白なことは、「過去において最善なこと」は、もはや必ずしも「未来においても最善なこと」では ないということである。ほとんどまたは全く変化しない社会では、年長者の知恵や過去の経験は、若者 にとって良い指針となるであろう。しかし急速に加速的に変化している時代では、必ずしもそれが真実 というわけではない。若者自身の学習にとって何が必要であり何が単に望ましいか、を判断するのは若 者のほうが年長者よりも適しているかもしれない。この二つの極端な見解の間のどこかで、世代を超え た対話がされることが大いに望まれよう。

 フィンランドでは総合学校から、特別コースを設けたり、選択科目を増やしたりしている。さらに、それぞれのクラスの実情に応じて、担任がどの教科にでも配分する権限を与えられた時間が多く設けられている。また、生徒の個別事情に対応するための補助教師制度がある。学年・学級を廃止して、生徒一人ひとりがそれぞれの時間割で学ぶ高校も出てきた。大学入学資格試験は自国語を除く他の教科がすべて選択制である。この国は、何を学ぶかを、生徒と教師(学校)の間で調整できるシステムを、意図的に模索している。

  従来、カリキュラムは三つの要素から構成されている。それは、知識、技術、態度(Knowledge,Skill s and Attitudes:KSA)である。そして伝統的な教育カリキュラムは、態度より技能、技能より知識に重 きをおく傾向にある。(中略)知識についていえば、世界中で蓄積された知識が、本やインターネットで 簡単に手に入る時代においては、自分の脳から知識を引き出す能力はさほど重要ではなくなる。挑戦す べきは、21世紀における学習社会の創造である(「知識社会」ではない)。そして学習社会はASKのカリ キュラムを求めるのである。

 日本でもひところ「新学力観」が言われ、態度・意欲・関心が強調された。だが、意欲や積極的な学習態度は、学習者中心のカリキュラムがなければ向上しない。文科省は態度・意欲・関心を教師が評価する項目として提示した。序列意識と矛盾する原則が、序列秩序のなかで行われるはずはない。けっきょく、生徒を教師に従わせる恫喝の意味しかもたなかった。そして、現場ではあいかわらず暗記した知識の量が成績評価の基準になっている。情報技能は強調されている。だがそれは、コンピュータの操作方法としか解釈されていない。本当に重要なのは、情報を評価し・選択し・発信する技能である。その技能は、学習者個人の価値判断、好みが尊重される学習環境がないと、効率よく発達しない。フィンランドの教育関係者がそういう学習環境の実現に努めてきたから、この国は学力世界一になった。こちらでは、序列秩序強化の方向が「教育改革」と呼ばれている。

  実際、創造性と知能は大きく区別される(創造的であるためには、ある程度の知識の「閾」が必要で あるが、その閾値(いきち)以上になると創造性と知能は全く関係がない)と長年、確認されている。

 高齢者の学習に関連した報告の一部の引用だが、学校で成績がよくても社会で成功するとはかぎらないという、世間知の根拠を説明しているようで、おもしろい。進学や学校の成績評価基準が、知識量でなく創造性に変われば、この世間知も変わるだろう。情報・サービス経済が求めるのは、創造性にすぐれた人材である。ちなみに、高齢者は知識には制約があっても、創造性は衰えないばかりか向上するかもしれない、と指摘されている。前に言及した本で吉本隆明が似たようなことを言っていたが、高齢者の創造能力を活用する社会的シフトには経済効果があると思われる。
 
能力主義
 ここまではOECD教育研究センターの冊子の記述を、わたしの関心に沿ってアト・ランダムにとりあげてきたが、実際の本文は「能力主義」の問題点の指摘から始まる。社会は「貴族主義」「能力主義」「民主主義」の順に発達する傾向があるとして、最後の段階に即した生涯教育こそがいまの課題だという主張だ。「多くの若者が学校を忌み嫌い、就職するために必要な読み書きや数学の基礎を学ばないでいる。そして、彼らは授業を邪魔したり、学校をずる休みしたり、「知的サボリ」、つまり知的に頭を使おうとしなかったりする」のは、この課題が解決されていないからだと示唆されている。次の段落の記述は、冊子の第一章第一節を短く要約したものである。
 貴族主義社会で重んじられた特権は時代遅れだが、能力主義社会にもエリート重視の考えが残っている。能力主義はけっきょく特権階級を有利にするもので、差別的教育の温床になる。貴族主義社会ではだれが最高かあらかじめわかっているが、能力主義社会では最高の人々を探して高い報酬を与える。どちらの社会も選別的な教育システムを正当化する。肉体労働者を多く必要とした19世紀とちがって、21世紀の職場は高い教養をもつ労働者、そして彼らの生涯学習を求める。知能はその人ごとに生まれながらの限界がある単一能力ではなく、予測を超えて発展する可能性のある複合的な能力で、限界は未知数である。学習の速さには個人差があるが、それには自信、意欲、学習環境が合っているかどうかなどが影響している。民主主義社会は、最も能力のある人だけでなく、すべての人に生涯学習の成功を求め、それに対して報酬を与える雇用形態を提供する。だから分離と選別による学習は拒否される傾向にある。分離・選別された集団の規範に順応することで、より自分らしくなり、独自の可能性をさらに発揮する自由が制約される。仲間集団が学習者に積極的な意欲を与える可能性もあるが、悪い影響の可能性が最低でも同程度にはある。生涯学習推奨者には、経済的理由、公正さ、達成感を語る三つの集団があるが、意識的・無意識的にエリートというものに価値を見て、何らかの形で選別を温存しようとする第四の集団もある。
 日本の政界・経済界・教育界の既成指導者の大多数は第四の集団に属するのだろう。そしてその反対派や市民派でも、指導者層の多くはやはりこの集団なのではなかろうか。ただ、前者には意識的なエリート主義者が、後者には無意識のエリート主義者が多いというちがいはありそうだ。骨肉化された思想になっていない反エリート主義は、権力を公認されると容易にあからさまなエリート主義に変わる。日本ではまだ、貴族主義から能力主義への移行が課題であり、逆行を求める潮流も強い。フィンランド指導者は前三集団のどれかに属する人がほとんどのようだ。そして能力主義から民主主義への移行を模索しながら、そこに噴出するさまざまな問題に悩んでいる。最後の章はその悩みが主題である。
 (この章終り)