むかし村八分というリンチがあった

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 村八分という言葉があります。都会で育った人や、田舎でも若い人は、なじみがないかもしれません。慣習を無視するなどの不都合があった家族に、集落全体が葬式と火事以外での付き合いを断つ、という非公式な制裁です。終戦から4年ほどたって、選挙違反を告発した人の家族が村八分にされたという記事が、新聞に載ったことがありました。どこか遠い土地のことなのに、その事件を知ったときの、なんとも重苦しい陰鬱(いんうつ)な気分を、今でもわはしは覚えています。
 当時わたしは、開けた町から雪深い山村にやってきた新参一家の、10歳の子どもでした。同級生たちの家はほとんどみんな農家で、わずかな田を耕し、畑を作り、蚕を飼い、鶏を育て、やっと暮らしていました。ハレの日(祭りや盆・正月)でもなければ、換金作物である米も卵も彼らの口には入りません。普段の主食は、稗(ひえ)の粉をこねて野沢菜の漬物を包み囲炉裏で焼いた、アンボというだんごでした。布団はわらを布で包んだものです。
 戦前からの地主制のもとで培われた封建的な意識と、「民主主義」の新しい意識が、競い合い始めたばかりの村です。新しくできた新制中学の校長として赴任した父は、後者のいはばチャンピオンでした。幼いわたしは、はっきりしたことは何もわからないものの、子どもの世界にも反映されていた慣習的な秩序の中で、自分が異物であると感じていたのだと思います。幼いなりに、暗黙のうちに同調を強いる圧力に、自分の居場所を確保したいという望みが打ち砕かれそうな恐怖感があって、それが村八分事件の情報と重なって重苦しい記憶になったのでしょう。
 わたしが美幌町に移って5ヶ月がたちました。この町の人々との短いい付き合いの中で、押し付けがましく踏み込んでこようとはしないのに、困っていることはないかと遠くから見守ってくれているような、不思議な快さを感じています。潜在意識の底に眠る、同調圧力に対する恐怖感が融けはじめているのでしょうか。北海道の地元の人は、内地のさまざまなところから移って来て、力を合わせて厳しい風土に定着した祖先をもっているのでしょう。なんなのかよくわかりませんが、ここには首都圏の新興住宅地とも、内地の因習的な村落ともちがう、新しい地域共同体の可能性があるような気がしています。

 今日の写真は、7月11日に撮った網走湖で、載せきれなかったものです。